23人が本棚に入れています
本棚に追加
ウィルクスは、思わず言った。
「……愛しています」
「ああ、ありがとう」
手の甲で、刑事は目を押さえる。しばらく沈黙が流れた。ハイドが静かに言った。
「泣いてるのか?」
「……いいえ。少し……疲れていて」
「電話、切ろうか?」
「……はい」
「ぼくは君を苦しめているな」
「いいえ。おれが、好きでやってることですから」
沈黙。唐突にハイドが言った。
「跡目を、譲ろうと思っている」
魂の裏側にするりと忍び込んでくるような低い声に、ウィルクスは目を押さえて固まったままだ。ハイドはさらに話を続ける。
「腹心の、ジャクスンになら後を任せられる。この計画は、まだ誰にも話していないが。君を除いてね」
「……跡目を譲ったら……その後は、どうするんですか?」
「一般人として暮らそうと思う。そうだな、ぼくは料理とコーヒーが好きだから、カフェを始めようかな。それとも、本も好きだから、古書店とか」
ウィルクスは顔を上げた。まだ涙に濡れた目を細めて、笑みがこぼれ落ちた。
「おれ、カフェも古書店も、どっちも好きです。あなたの店なら通います」
「ありがとう。週末には遊びに来てくれ」
「どうして、跡目を譲ろうと思ったのですか?」
ハイドはしばし黙った。その青い目が、風になびく柔らかな衣のように揺れた。
「君と生きていきたいと思うから」
ウィルクスの頬に、涙が伝った。刑事は拭おうともしなかった。ありがとう、ハイドさん、と震える声で礼を言った。
ふいにハイドの顔に、凶暴な色が閃いた。それは一瞬だったが、ウィルクスは見逃さなかった。自分に向けられたものだと気づいていた。
「今すぐ抱きしめたい」
ハイドは静かに言って、微笑んだ。ウィルクスはこくりとうなずく。堪え切れず、思いが溢れ出た。
「明日、会いに行っていいですか?」
「いいよ。人払いをしておく。だが、『アレ』はおあずけだよ」
「わかっています。セックスは、しない。お互いにけじめをつけるまで」
「ぼくは足を洗う。そして君は――」
「刑事を辞めるまで。そういうことは、しない」
「いい子だ」
ウィルクスの顔が、だらしないほどに緩んだ。まるで狼に飼われている犬のように、刑事の表情には凛々しさと従順が同居している。いや――「従順」というよりは、「媚び」だ。
しかし、ウィルクスは媚びた表情をすぐに顔の上から拭い取った。代わりにいつものきりりとした表情で、まるで褒美を与えられた騎士のように、畏まると同時に気高く微笑んだ。
ハイドも微笑み、乾杯の仕草をしてみせる。
「明日、<ザ・マッカラン>のオールドボトルを開けるよ。楽しみにしていてくれ」
「ありがとうございます。では、明日」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
通話が切れる。ウィルクスはスマートフォンを放り、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
体が中から熱く、高揚と虚しさがせめぎ合っている。
喜びは、確かにあった。「君と生きていたいと思うから」。涙が溢れるほどうれしくて、ハイドがもう見ていないこともあって、ウィルクスは今になってすすり泣いていた。
嗚咽を漏らしながら、目を擦る。そうしながら、肉体の底には虚しさが固く冷たく居座っていた。
ハイドを愛しているが、いっしょにいるのは、疲れる。彼のことを考えるのは疲れる。それはハイドが犯罪者だからだろう。ウィルクスが刑事だからだろう。
冷酷な、獣。ハイドがそんな顔をウィルクスに見せたのは、たった一度きりだった。だが、一度で十分だとウィルクスは思う。
「あれ」はウィルクスのトラウマとなっていた。恋人が優しく微笑んでくれるたび、甘い言葉と抱擁で愛してくれるたび、そのトラウマはフラッシュバックする。
優しいこの人のこの顔は、嘘だ。そんな思いがウィルクスを圧倒するのだ。
カットソーの袖で涙を拭き、ウィルクスは明日の楽しい夜について考えるよりも、一年前のことを思い出していた。
一年前――ハイドに初めて出会った日のことを。
最初のコメントを投稿しよう!