1.夜半の電話、夜半の告白

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 ウィルクスは、思わず言った。 「……愛しています」 「ああ、ありがとう」  手の甲で、刑事は目を押さえる。しばらく沈黙が流れた。ハイドが静かに言った。 「泣いてるのか?」 「……いいえ。少し……疲れていて」 「電話、切ろうか?」 「……はい」 「ぼくは君を苦しめているな」 「いいえ。おれが、好きでやってることですから」  沈黙。唐突にハイドが言った。 「跡目を、譲ろうと思っている」  魂の裏側にするりと忍び込んでくるような低い声に、ウィルクスは目を押さえて固まったままだ。ハイドはさらに話を続ける。 「腹心の、ジャクスンになら後を任せられる。この計画は、まだ誰にも話していないが。君を除いてね」 「……跡目を譲ったら……その後は、どうするんですか?」 「一般人として暮らそうと思う。そうだな、ぼくは料理とコーヒーが好きだから、カフェを始めようかな。それとも、本も好きだから、古書店とか」  ウィルクスは顔を上げた。まだ涙に濡れた目を細めて、笑みがこぼれ落ちた。 「おれ、カフェも古書店も、どっちも好きです。あなたの店なら通います」 「ありがとう。週末には遊びに来てくれ」 「どうして、跡目を譲ろうと思ったのですか?」  ハイドはしばし黙った。その青い目が、風になびく柔らかな衣のように揺れた。 「君と生きていきたいと思うから」  ウィルクスの頬に、涙が伝った。刑事は拭おうともしなかった。ありがとう、ハイドさん、と震える声で礼を言った。  ふいにハイドの顔に、凶暴な色が閃いた。それは一瞬だったが、ウィルクスは見逃さなかった。自分に向けられたものだと気づいていた。 「今すぐ抱きしめたい」  ハイドは静かに言って、微笑んだ。ウィルクスはこくりとうなずく。堪え切れず、思いが溢れ出た。 「明日、会いに行っていいですか?」 「いいよ。人払いをしておく。だが、『アレ』はおあずけだよ」 「わかっています。セックスは、しない。お互いにけじめをつけるまで」 「ぼくは足を洗う。そして君は――」 「刑事を辞めるまで。そういうことは、しない」 「いい子だ」  ウィルクスの顔が、だらしないほどに緩んだ。まるで狼に飼われている犬のように、刑事の表情には凛々しさと従順が同居している。いや――「従順」というよりは、「媚び」だ。  しかし、ウィルクスは媚びた表情をすぐに顔の上から拭い取った。代わりにいつものきりりとした表情で、まるで褒美を与えられた騎士のように、畏まると同時に気高く微笑んだ。  ハイドも微笑み、乾杯の仕草をしてみせる。 「明日、<ザ・マッカラン>のオールドボトルを開けるよ。楽しみにしていてくれ」 「ありがとうございます。では、明日」 「ああ。おやすみ」 「おやすみなさい」  通話が切れる。ウィルクスはスマートフォンを放り、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。  体が中から熱く、高揚と虚しさがせめぎ合っている。  喜びは、確かにあった。「君と生きていたいと思うから」。涙が溢れるほどうれしくて、ハイドがもう見ていないこともあって、ウィルクスは今になってすすり泣いていた。  嗚咽を漏らしながら、目を擦る。そうしながら、肉体の底には虚しさが固く冷たく居座っていた。  ハイドを愛しているが、いっしょにいるのは、疲れる。彼のことを考えるのは疲れる。それはハイドが犯罪者だからだろう。ウィルクスが刑事だからだろう。  冷酷な、獣。ハイドがそんな顔をウィルクスに見せたのは、たった一度きりだった。だが、一度で十分だとウィルクスは思う。  「あれ」はウィルクスのトラウマとなっていた。恋人が優しく微笑んでくれるたび、甘い言葉と抱擁で愛してくれるたび、そのトラウマはフラッシュバックする。  優しいこの人のこの顔は、嘘だ。そんな思いがウィルクスを圧倒するのだ。  カットソーの袖で涙を拭き、ウィルクスは明日の楽しい夜について考えるよりも、一年前のことを思い出していた。  一年前――ハイドに初めて出会った日のことを。
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