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2.いとも容易く堕ちる出会い
「世の中には、一目見ただけで邪悪だと分かる人間がいるものだが、建物にもそうした例がある」
これはイギリスの怪奇小説作家、アルジャーノン・ブラックウッドが著(あらわ)した幽霊屋敷譚「空家」の冒頭の一文である。
この一文は、ウィルクスがハイドに出会った日の夜、読書をしていてたまたま巡り会った一文だった。ときにそういう偶然が起こる。物事と物事の間に不思議が働いて、「惹かれ合う(シンクロニシティが起こる)」ということが。
冒頭の一文に続く文章は、こうである。
「邪悪な人間というものは、とりたてて邪悪の看板をぶら下げている必要はない。開けっぴろげな顔立ちに無邪気そうな笑みを浮かべていようとも、しばらくそのような人間と一緒に過ごしてみれば、どこか根本的にたがの外れた部分があること――その人間が邪悪であること――は、火を見るより明らかになる」
だが、ハイドに出会ったそのとき、ウィルクスは彼を邪悪だとは思わなかった。むしろマフィアの首領なのにマトモな人だと、穏やかで優しい人なんじゃないかと、好感すら持った。
いや、もっと端的に言えば――その笑顔に、ウィルクスは「堕ち」ていた。
しかし、ハイドは邪悪な――たがの外れた人間だった。それはじきにわかる。
このときのウィルクスは、まだ知らない。一年前の十一月、ハイドと接触できた余韻に浸りながら、下宿のフラットで「空家」を読んでいるウィルクスは。
○
ことの起こりは、ハイドと出会った一か月前、十月に遡る。ちょうどウィルクスが二十七歳の誕生日を迎えた翌日のことだった。
昼休みを終えて、SCO1(殺人・重大犯罪対策指令部)のオフィスに戻り、パソコンのロックを解除して仕事を始めようとしていたウィルクスは、同じ部署のハーパー警部に声を掛けられた。
柔らかな金髪に茶色の瞳、目尻の皺にも優しさと柔和さが表れているハーパーは、少しだけ眉間に皺を寄せていた。
「あのな、ウィルクス。これは本来SCO7(重大・組織犯罪対策指令部)の管轄だと思うが、被疑者が君と話がしたいと言うので、特別に警視が許可してくださった」
「……なんのことですか?」
話が見えない。怪訝な顔をするウィルクスに向かい、ハーパーは人差し指の背で眼鏡のブリッジを押し上げると、
「被疑者はマフィア――ベントリー・ファミリーの構成員で、同じファミリーの構成員をナイフで刺した。被害者は亡くなってはおらず、傷害事件だ。被疑者の名前はテネシー・シモンズ。君の大学時代の友人だと、本人が話していた」
体の中で、自分の軸となっているものが一瞬揺らいだような感覚が、ウィルクスを襲った。
テネシー・シモンズ。派手な赤毛で、とても成績優秀で、でもユーモアのセンスがあって、『スター・ウォーズ』の大ファンだった。シモンズの専攻は法学だが、ラテン語の授業でウィルクスといっしょになったことをきっかけに、二人は友人同士になった。彼らは予習の合間に、大学のカフェテリアでみっちり話し込んだ。好きな本、お気に入りの映画、恋人のこと、共通の友人のこと、卒業論文のこと、将来のこと。
シモンズはたぶん、自分は法廷弁護士(バリスタ)になると思う、と言った。ウィルクスは、「おれは刑事になるよ」と言った。すると、シモンズは大きな青い目をぎょろぎょろさせた。
「君が刑事?」
「おかしいか?」
「いや、かっこいいよ」
笑いあったのがつい昨日のことのようだ。
大学を卒業して、ウィルクスは就職し、シモンズは法廷弁護士になるためにさらに勉強を続けた。そうこうしているうちに、なんとなく疎遠になった。そんなものだ、とウィルクスは思っていた。寂しくは無かった。連絡先は知っていたし、なにかあれば連絡すればいい。
そのチャンスは卒業から二年後にやって来た。共通の友人が結婚して、ウィルクスもシモンズも結婚式に招待されたのだ。
しかし、シモンズは来なかった。
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