2人が本棚に入れています
本棚に追加
4
ラドが目を開けると、廃墟ではなく、広がる緑の草原が目の前にあった。
柔らかな風が頬を撫でるなか、視線を落としてラドは足元を確かめるが、草を踏むその感覚はどこか曖昧だ。
――ラド……。
空間に溶けるような声に、ラドは反射的に顔を上げる。
視界に映ったのは、人の形をしながらもどこか実体のない存在だった。それに視線を鋭く向けたラドだが、同時になぜか喉の奥で不安を感じて息を呑む。
「お前は、なんだ」
無意識に震える指を握りしめ、問う声を押し殺した。
――私は、あなたが探す答えを知っている者。
「俺が探している……?」
女のような声に、ラドは自問するように言葉を発する。
どういうことだ、と問うため一歩を踏み出すが、足元がやけに軽く感じられ、彼の顔には疑念が浮かんだ。遠くでは微かに風景が揺らいでいるように感じた。
果たしてそれは確かで、草原が消え始め、存在の姿も霞んでいく。
ラドはその消えゆく影に焦るように手を伸ばしかけるが、何も掴めない。それどころか、空を切る自分の手が無意味に震えているのを見て、唇を固く結んだ。
そんななか、移り変わる景色。
「なんだ……」
ラドの目に映るのは、どこか現実味に欠ける家の中だった。木の温もりは感じるものの、空気は重い。息が詰まるような感覚とともに言い表せない不安がラドを襲う。
「こんな場所知らないはずなのに、なぜ……」
目の奥を突くような既視感とともに、速くなる動悸。胸を押さえ深く息をつき、とにもかくにも現状を把握しようとした彼は、ふと部屋の中央に置かれた古びた写真に目を奪われ、ゆっくりとそれに手を伸ばした。
写真に写るのは幼いラドと、見知らないはずの男女。
しかし――
「俺は……ここで産まれた?」
頭に浮かんだひとつの疑念を言葉にすると、胸を鋭い痛みが刺し、ラドは目を閉じる。
『おかえりなさい、ラド』
刹那、響く声につられ、ハッと振り返る視界に映る景色は、瓦礫に覆われた街へと変わっていた。
彼の足元には瓦礫が散らばり、遠くには火の燃えさしがちらちらと光っている。冷たい風が彼の頬を切り裂くように吹きつけ、ラドは立ち尽くした。
「今度はどこだ……」
『ラド! 早く!』
その時、遠くから声が聞こえてきた声にラドは驚いて辺りを見回すが、目に映るのは瓦礫の山だけだ。
「誰だ……?」
焦りが彼の胸を駆け抜け、耳の奥で鼓動が強く鳴り響く。自分の名を呼んだその声には確かな懐かしさがあり、ラドは息を詰めて記憶を辿ろうとした。
その瞬間、右隣の家が突然爆発して炎が立ち上り、肌に伝わる熱気に、ラドは無意識に身を引く。
「なんなんだいったい……」
響いた爆発音と叫び声に、恐怖と混乱が彼の体を突き抜けた。
『ラド、そこに……いるの』
遠くから聞こえる声は、微かだが明確だ。心を切り裂き何かを思い出させるような声に、彼はただ応えるしかなかった。
「今行く……!」
自分の意志とは関係なくラドの声は掠れたまま叫びとなり、彼の体を前へと突き動かす。瓦礫を乗り越えながら、足が崩れそうになる度に彼の焦りはさらに募った。
そして、瓦礫の山を越えた先、視界に広がったのは小さな開けた場所――そこには人影が二人、倒れていた。
「っ、あ……」
倒れる男性と女性の顔が写真の人物と重なり、ラドは呼吸が止まりそうになる。
目の前の光景が脳裏に焼き付き、全身を麻痺させた。同時にラドの胸で、何かが震える。炎、両親、崩れ落ちる家――記憶が曖昧に揺れるが、何かが足りない。重要な記憶がまだ霧の中に隠されている感覚に、ラドの胸は焦燥感で溢れていく。
『父さん! 母さん!』
いつからいたのか、隣で瓦礫に向かって叫ぶのは、幼い日のラドだった。
彼の叫びも空しく、母親は目を閉じて静かに横たわっている。父親の手は何かを伝えようとするかのように微かに動いたが、ラドの小さな手のひらを掴む前に地に落ちた。
「おもい……だし、た」
記憶が、今、ラドの身体を貫き、言葉は喉に詰まり、呼吸が乱れる。
あの日、惑星は資源の枯渇と環境悪化で混乱し、暴動が広がっていた。研究者だったラドの両親が政府の求めに応じて行った新たなエネルギー開発も失敗に終わり、その影響で街の崩壊が加速してしまった。炎と瓦礫で埋め尽くされる街からの緊急避難を余儀なくされ、走るさなか、母に突き飛ばされた――と思った瞬間、轟く音。
息を詰めて立ち尽くす目の前で、両親が崩れた建物の下に沈んでいくのが夢だったらどんなに良かっただろう。
瓦礫の中で叫ぶ幼い自分は、あまりにも弱かった。無力な自分が、憎らしかった。
両親が冷たくなった後も泣き続け、声は枯れたのに、何も変わらなかった。まるで世界そのものが消えてしまったかのように、何も感じられなくなった。視界はぼんやりと遠くなり、両親との思い出も、胸の軋みも、徐々に霧の中に沈んでいく。やがて、ただ漠然とした虚無だけを心に残したまま幼いラドは意識を失い――次に目を覚ました時、彼の中から家族の記憶はすべて消えていた。
まもなく、膨大なエネルギー反応を探知し、現場に派遣された宇宙探査員たちによって保護された幼いラドは、何も覚えていないまま、この星から救い出されたのだ。
「俺は、あの日を忘れたかった……抱えていくには、苦しすぎた」
星に置き去った記憶。それは無意識にラドの心の奥で燻り続けていた。
景色が崩れ落ちていくなか、声を震わせたラドは、あの日と同じように立ち尽くす。
今、思い出した記憶が彼の胸を鋭く刺した。
「……ごめん」
そして、呟くと同時、彼は再び、忘れていたはずの我が家の居間に立っていた。
壊れた家具、埃に覆われた床、止まった時計――すべてが過去を呼び覚まし、懐かしさと喪失感が彼を襲う。
「なぜ、この記憶を見せた……」
ラドが戸惑いを抑えきれないまま、この場所へ導いたのであろう声の主に問いかけると、声は、耳元で囁くように応えた。
――あなたがここに戻ってきたから。そして、ここは、私がずっと見守ってきた場所だから。
その言葉が胸に響くと同時、懐かしさと共に恐怖にも似た感情がラドの心の奥底に広がる。
「答えになっていない。お前は誰だ」
ラドは深く息を吐き、再び問い返すが、戸惑いと苛立ちに微かに声は震えた。
――私は、この星の記憶。
「星だと……?」
ラドは驚き、声の言葉を繰り返す。
――そう、そしてあなたにとって母であり、父。この星で生まれ、育ったあなたを、私はずっと見守ってきた。あなたが宇宙で二十年生き、この星が数百の年を巡るあいだも、ずっと。
声からの答えを聞いた瞬間、ラドの胸に強烈な感情が押し寄せた。まるで、失った両親が目の前にいるかのような感覚に包まれたのだ。
つかえた喉の奥から言葉が零れた。
「なぜ……なぜ今さら」
――忘れることで、あなたは痛みから逃れていた。でも、このままでは、きっとあなたはあなた自身を見失ってしまう。
少し悲しさを孕んだその言葉に、ラドはハッとし、リックとの会話を思い出す。
何か見つけたか、とリックに問いかけられたとき、自分の中に何かを探している感覚が確かにあった。しかし、無意識のうちに追い求め続けていたそれが何なのか、はっきりとはわからなかったがゆえに、どうしようもなく急いていた。自分でも気づかぬうちに、目の前にある現実の時間がぼやけていた。
――私は……母は、父は、痛みであなたを支えたい。私たちは、生きているあなたのなかで、生きたい。
声が優しく、しかし力強く響く。
忘れたかった過去、逃れたかった痛み。今はそれが、じんわりと胸を締め付けている。
「そうだ、俺はずっと……探していた」
――はい。ラド、見つかりましたか?
問う声は穏やかだ。
焦燥感に駆られていた心が、今静かに落ち着いていく。ラドは答えを出す前に、深く息を吸った。ずっと自分の中で探し続けてきたもの、そしてその答え――それは、もう迷うことなく見えている。
「……ああ、見つけた」
言葉は静かに零れたが、胸の奥では何かが大きく響いた。ずっと探し続けていたそれは、この星でも、過去の記憶でもない。
「帰るべき場所は、俺が生きる先にある」
答えた瞬間、ラドの周囲の景色がゆっくりと溶けていく。
白い光の中で、秒針の音が聞こえる。
姿は見えずとも、星と呼ばれたその声が微笑んだような気配がした。
最初のコメントを投稿しよう!