一.弘樹の日課

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 夜遅く___。 マンションの廊下。 遠くの方から コツン。  コツン。   コツン。 この一室に向かって軽やかな足音が近づいてくる。 だんだんとその音が近くなってきて、 ふいにこの一室の玄関前で止まる。 一瞬の静けさのあと、 ガチャリと玄関の扉が開く音。 その度に、今日も、寝室で沙知絵は一人体を震わせるのだった。 いつの日からだろうか。 帰宅した者の存在が分かった瞬間、 沙知絵は布団を防護壁みたく体を覆い隠し、 寝ているふりをすることが。 思い出したくもない記憶が脳裏に鮮明によみがえる。 必死にその記憶を振り払おうと すればするほど、ボーダー柄のパジャマが波打つ。 その震えを止めようと、沙知絵は自分で自分の 体を強く抑え込む。 そんなこともつゆ知らずか、 無言の帰宅者は、くたびれた靴を脱ぎ、 玄関の上り框をあがる。 そして、ゆっくり、ゆっくりと廊下を歩いてくる。 何かに吸い寄せられるように。 フローリングの廊下は、 久しぶりに今日の昼、ワックスをかけた。 鼻にツンとくる匂いが、 少しでもあの人の頭を正常にしてくれないだろうかと、 叶いもしない願いを ふと、布団の中で沙知絵は考えた。 3LDKのマンションは二人で住むにはちょっと広い。 薫がいたころにはちょうどよかったのだが。 ____あぁ、もうすぐ。もうすぐだ。 無言の帰宅者。 いや、夫の弘樹はもうすぐ、台所にたどり着くだろう。 そして、微笑みながら、扉を開けるのだ。 冷蔵庫の扉を。 ヒヤリとした冷気が、弘樹の顔面を包み込む。 それでも、弘樹はおかまいなしに、 冷蔵庫の中をのぞき込む。 そして、言うのだ。 「ただいま___。ただいま薫、パパ今帰ったよ。」 弘樹の微笑みを庫内灯の光が青白く照らす。 しかし、冷蔵庫の中に、目的の者がいないことが分かると、 能面のような顔になり、弘樹はその場から立ち去る。 誰もいなくなった冷蔵庫の中から流れるのは 無機質なコンプレッサーの音だけ。 それだけが、その異様な空間に花を添えるようなBGMとして流れている。 毎晩、毎晩仕事から帰ったら これの繰り返し。 もう、薫は、 娘の薫はこの世にいないのに__。
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