見知らぬ妻

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 俺は田中(さとし)、38歳、独身。極々平凡なサラリーマンである。今日は久しぶりの飲み会で、つい飲みすぎてしまった。覚束無い足取りで自宅マンションに帰宅し、愛猫サクラが待つ家の玄関を開けた。 「ただいま」  いつものようにサクラに声をかけたつもりだった。しかし、だ。 「はーい、おかえりなさ〜い」  聞いたことのない女性の声がしたのだ。  俺は驚いて声がしたリビングのドアに目をやった。暫くして、ドアが開きミディアムヘアの綺麗な女性が顔を覗かせた。 「玄関に突っ立ってどうしたの?」  俺はハッとして慌てて玄関の扉を開けて外に出た。 「406号……」  ──間違いない、俺の家だ……。じゃあ、あの女性は一体!?  俺が玄関前で固まっていると、玄関から女が顔を出し俺に怪訝な目を向けた。 「どうしたの?」 「あっ…………いや……」 「早く中に入りなよ。卵スープ温めるから」  女はそう言うと、再び家の中へと消えていった。  ──あの女、俺が酒を飲んだ後は卵スープを飲むって何で知ってるんだ!?  ますます頭が混乱する。しかし、ここは俺の家だ。 「よしっ!!」  俺は気合を入れて、家の中に入った。  (問い詰めてやる!)  勢いよくリビングのドアを開けると、卵スープの優しい匂いが鼻をくすぐり、食欲を刺激した。先程までの勢いが一気にしぼんでいく。  俺は無言のまま椅子に座ると、女がトレイを持って近づいてきた。 「はい。卵スープ」  俺の目の前にふわふわの卵と刻みネギが浮んだ黄金色のスープが置かれた。 (う、美味そう……)  飲酒後の食欲に抗えずはすがない。俺は無言でスープに口をつけた。 (美味い!)  口の中にじんわりと広がる優しい味に、思わず頬が緩んでしまう。 「美味しい?」  いつの間にか正面に座った女が肘を頬杖をつきながら、笑顔で問いかけてきた。 「あぁ…………ところで、君は誰なんだ?」  すると女は目を見開き一瞬固まった後、思いもよらぬ一言を言い放った。 「あなたの妻よ! 妻の顔を忘れるほど酔ってるの!?」  ──妻だって!? 俺は結婚どころか恋人もいないぞ! どういうことだ!? 「俺に妻なんていないはずだ!」  混乱する頭で言い返すと、女は俺の後ろにある飾り棚を指差した。 「何言ってるの!? 写真を見てよ!」  振り返ると、そこにはシンプルな木製の写真立てが置いてあった。写真の中で、俺は小さな男の子を肩車し、女とともに微笑んでいる。 「えっ……!? この子は?」 「もうっ!! 智仁(ともひと)のことも忘れたの!? 私達の子どもよ!!」 「えぇっ!?」  開いた口が塞がらないとはこのことである。俺は、俺の知らない間に、妻と子供ができていたなんて……。 「もうっ! どんだけ飲んだのよっ‼ そんなに酔って!! 早く寝たほうがいいわよ!!!!」  女は目を吊り上げて俺の腕を引っ張り、寝室に押し込んだ。 「おやすみなさいっ!」  そう言うと、女はピシャリとドアを閉めてしまった。 「訳が分からない……」  俺はベッドに転がり、ぼ~っと天井を眺めた。恋人がいた記憶も、結婚した記憶もないのに、妻と子供だって???? どうなっているのだろう? 酔いが回った頭では何も答えは出ず、むしろ強い睡魔が襲ってくる。  (あぁ……明日考えよう……)  意識を手放そうとしたその瞬間、ドアの外で話している女の声が微かに聞こえた。 「──えぇ、そうなんです。どこか壊れたのかもしれないので診てもらえませんか?」 ****  田中智の寝室に、グレーの作業着を着た初老の男性と智の妻を名乗る女が立っている。二人は、ベッドで仰向けになりぐっすりと眠る智を見下ろしていた。智は部屋が明るくなっているというのに、一向に起きる気配がない。そんな智を見下ろしたまま、初老の男性が口を開いた。 「それで、奥さんのことを全く覚えていないんですね?」  初老の男性は妻に確認するように尋ねた。 「えぇ。私だけではなく、子供のことも全く覚えていないんです」  視線を智の顔に向けたまま、妻が腕を組みながら返事をする。その声に感情はのっていない。 「わかりました。確認しますね」  初老の男性は、迷いなく智の頭にドライバーを差し込んだ。  暫くすると智の頭がガチャリと音をたてて開いた。頭の中には、沢山の抵抗やマイクロチップ、センサなどが配置された緑色の基板が重なるように収納されている。初老の男性は、1枚の基板を引き出した。 「あぁ、奥さん。この家族の記憶の基板に繋がる配線が断線してますね。これが原因でしょう。すぐに直しますのでお待ち下さい」  初老の男性はニッパーで問題の配線を整えてから、半田と半田ごてでチャッチャと配線を繋いでいく。  ものの五分で作業を終え、智の頭を閉じた。そしてライトを当てながら入念に智の頭部を確認し、女へ声をかけた。 「あぁ、奥さん。ここ、見て下さい。少し凹んでいるでしょう? 転倒したか、何かにぶつけたかで衝撃が加わって、内部の配線が断線してしまったんでしょう。今度の定期点検の際に、頭部の緩衝材を厚めにしたほうがいいかもしれません」  初老の男性は、智の頭部の一点をライトで照らし説明する。智の妻は照らされた部分を覗き込みながら何度も頷いた。 「わかりました。定期点検までは転倒防止の為に飲酒を控えさせるようにします」 「それが良いでしょうね。本格的に故障してしまうと、修理代が跳ね上がりますから。他に何かございませんか?」 「今のところは大丈夫です」 「そうですか。それでは、本日はこれで終了になります。本日の修理代は後日郵送でお送りする振込用紙で、銀行振り込みをお願いします」 「わかりました。ありがとうございました」 「いえ、また何かありましたらご連絡下さい。末永いご利用をよろしくお願いします。それでは失礼します」  初老の男性は荷物をまとめ、丁寧に頭を下げて帰って行った。  男性を見送る妻の手には、“家族ロボットメンテナンスサービス“と書かれた名刺が握られていた。
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