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――星座ってさ、こんなに広がっているのに、どうしても触れられないんだよね
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澄みきった空は、静かに橙色の薄絹を纏い始めていた。
昼と夜の境界が溶け合い、わずかな時間だけ世界は曖昧な色彩に包まれる。
地平線の彼方で、太陽は静かにその姿を隠そうとし、遠くの雲が淡く浮かび上がる。星が瞬くにはまだ早いけれど、その予感だけが空を満たしていた。
辺り一面、夕焼け色に染まり、すべてが柔らかな影を落としている。私たちは自転車を押しながら、ゆっくりと坂道を歩いていた。
足元に伸びる影は長く、私たちの歩みに合わせてゆらゆらと揺れる。遠くで鳥たちの群れが飛び去り、その羽音がかすかに耳に届く。
背後からは、住宅街の犬の鳴き声が響き、風は少しだけ冷たさを帯びていた。何もかもが一瞬、時を止めたかのように感じられた。
そのとき、「あなた」は足を止め、何かを探すように空を見上げた。
「星座ってさ、こんなに広がっているのに、どうしても触れられないんだよね」
彼女の声は、風に溶けてしまいそうなほど小さかった。それでも、その言葉は私の胸に深く刺さった。
まるで私たち自身のことを語っているようで、思わず呼吸が浅くなる。彼女が見上げる空は、私にも見えているはずなのに、そこには見えない何かが私たちを隔てているように思えた。
夕焼けの中、二人は並んでいるのに、星と同じように、彼女に触れることはできないのかもしれない。
私は何も言えず、その言葉を心に留めたまま、自転車のハンドルを少し強く握りしめた。再び歩き始めると、坂道をゆっくりと下りながら、町全体が夕焼けの海に沈んでいくように感じた。
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学校からの帰り道、私たちはいつもこの坂道を一緒に歩いた。誰が決めたわけでもないのに、自然と足がこの道へ向かう。
家までの途中、毎日同じ時間に同じ坂道を並んで歩くことが、当たり前の日常になっていた。言葉は多く交わさなくても、その静けさが心地よかった。何も話さなくても、互いの存在だけで十分だと思っていた。
坂の途中には古びた自動販売機がぽつんと立っていて、夏の日には二人でジュースを買った。硬貨が落ちるカランという音や、缶が取り出し口に転がる瞬間の響きが、何度も繰り返された。
けれど、最近はその自販機に寄ることもなくなった。ただ自転車を押しながら、沈む夕日を黙って眺めるだけ。言葉にしなくても、二人で過ごす時間が少しずつ変わってきていることに気づいていた。
「あなた」はいつも明るかった。誰にでも優しく、クラスの中で笑顔が絶えなかった。
でも、私は知っている。その笑顔がふと陰る瞬間があることを。
誰にも見せないけれど、ほんの一瞬、彼女の目が遠くを見つめている。何か大切なものを見失いそうな、そんな表情。
「あなた」の家のこと、詳しく聞いたことはなかった。話したくないのだろうと感じたから。
私はただ、彼女のそばにいるだけでいいと思っていた。彼女が話したくなるときが来るなら、その時まで待とうと決めていた。
でも、最近はその距離が少しずつ広がっていくような気がしていた。近くにいるはずなのに、手を伸ばしても届かないような感覚があった。
――星座の話、どうして急に?
聞いてみたい気持ちがあった。けれど、その問いは喉の奥で消えていった。
私たちの間には、言葉にできない何かがあって、それは星座の光のように淡く、けれど確かに存在していた。言葉にしないことで、むしろそれが強くなるような気がしたから。
二人の間には、目に見えない壁があるようだった。それでも、彼女が隣にいることが唯一の救いだった。
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朝の光が教室に差し込み、窓際のカーテンが風に揺れている。柔らかな光が教室の片隅に淡い影を落としていた。
まだ授業が始まる前のざわめきが、クラス全体を包んでいる。机を囲んで数人の友達が笑いながら昨日のテレビ番組の話をしている。
教室のあちこちから、机や椅子の微かな音や、ノートをめくる音が聞こえ、すべてが心地よい日常のリズムだった。
「おーい、こっちこっち!」
「あなた」の声が教室の端から聞こえた。その声はまるで光そのもののように弾んでいて、教室全体に明るさを広げていく。
「あなた」は窓際の席から大きく手を振って私を呼んでいた。朝の光を受けたその笑顔は、教室全体を照らすかのようで、彼女の周りにはいつも人が集まっていた。
私は机に置いた教科書を軽く押さえ、制服の襟元を整えながら立ち上がった。教室の中央を歩くと、他のクラスメートたちが「おはよう」と笑顔で声をかけてくれる。
私も微笑んで返事をしながら、「あなた」のもとへ向かった。
「今日の体育、外でサッカーらしいよ! 楽しみだね!」
「あなた」は明るく笑い、窓の外の晴れた空を指さした。その瞳はキラキラと輝き、どこまでも自由な空気をまとっていた。
教室の中が狭く感じるほど、彼女のエネルギーが溢れている。「あなた」はいつもそうだ。まるで自分が太陽そのものであるかのように、すべてを温かく包み込む。
「私、サッカー苦手なんだ」と私は笑いながら言った。けれど、本当は少しだけ不安だった。
みんなの前で失敗するのが怖かったから。けれど、「あなた」は私の肩を軽く叩き、笑顔で言った。
「大丈夫、大丈夫! 私がパスするから、ちゃんと受け取ってね!」
その言葉は、私の胸の奥深くまで届いた。まるで彼女の無邪気な言葉が、私の中の不安をすべて吸い取ってくれるかのように。
「あなた」の明るさに触れるたび、私の心は少しずつ軽くなっていった。
教室の中では、クラスメートたちが笑いながら会話を続けている。時折、大きな笑い声が響き、それに引き寄せられるように誰かが輪に加わる。
教室全体が、彼女の明るさを反射しているかのように、みんなが「あなた」に引き寄せられていた。
ふと、机の端に落ちた消しゴムを拾おうと身をかがめると、窓の外に広がる青空が目に入った。
透き通るような青さが、まるで私たちの未来を約束するかのように広がっていた。今日もまた、きっと楽しい一日になる――そう思いながらも、その未来がどこか儚いものに思える瞬間があった。
そのとき、担任の先生が教室に入ってきて、「みんな、席に着いて」と穏やかに声をかけた。クラスメートたちはそれぞれの席に戻り、椅子を引く音が教室に響いた。
私も自分の席に戻りながら、窓の外にもう一度視線を投げた。雲ひとつない真っ青な空。
すべてが輝いているように見えた。その青空に、私は「あなた」の姿を重ねた。彼女はきっと、この空のように永遠に輝き続ける存在なのだと、どこかで信じていた。
――その輝きが消えてしまうなんて、私はまだ考えたこともなかった。
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翌朝、教室に入ると、いつもの「あなた」の明るい声が聞こえてこなかった。
「おはよう」と声をかけてくれるクラスメートたちの笑顔も、今日はどこか曇って見える。「あなた」はまだ来ていないのだろうか。私は自分の席に着き、窓の外をぼんやりと眺めた。
青空が広がり、鳥たちが元気よく飛び回っている。けれど、その景色はどこか色あせて感じられた。チャイムが鳴り、担任の先生が教室に入ってくる。
「みなさん、席についてください。大切なお知らせがあります」
先生の声に、教室内のざわめきが静まる。私は胸の鼓動が早くなるのを感じながら、先生の言葉を待った。
「実は、――さんですが、ご家庭の事情で急遽引っ越すことになりました。今日からお休みになりますので、皆さんにもお伝えしておきます」
一瞬、時間が止まったように感じた。
クラスメートたちの間から驚きの声が上がる。
「え、嘘でしょ?」
「昨日まで普通にいたのに」
私は信じられない思いで、先生の言葉を何度も頭の中で繰り返した。
――引っ越す? 今日から?
何も知らされていなかった。
昨日、一緒に帰ったときも、いつもと変わらない笑顔だったのに。
胸の奥に、ぽっかりと大きな穴が開いたような感覚が広がる。
授業中も、ノートに書かれる文字は目に入らず、ただ「あなた」のことばかり考えていた。
放課後、私は一人で坂道を歩いていた。
いつもは「あなた」と一緒に歩く帰り道。
自転車を押す手が重く感じられる。
夕日が沈み始め、空は鮮やかなオレンジ色に染まっていく。
坂の途中で足を止め、自販機の前に立つ。
久しぶりに立ち寄ったその場所で、ポケットから小銭を取り出し、ジュースを買った。
缶が落ちてくる音が、静かな空気の中に響く。
缶を手に取り、一口飲む。
甘さが口の中に広がるが、心の中の苦さは消えなかった。
ふと、ポケットの中に触れる紙片があることに気づく。
それは雑誌の切り抜きで、「Je t'aime(ジュテーム)」の文字が印刷されていた。
以前、「あなた」に渡そうと思って持ち歩いていたもの。
けれど、結局渡せずにいた。
紙片を見つめながら、静かに呟いた。
「伝えられなかったね……」
風が吹き、紙片がひらひらと揺れる。
思わず手を離してしまい、紙は風に乗って空高く舞い上がった。
慌てて追いかけようとするが、紙片は遠くへと飛んでいってしまう。
まるで「あなた」との距離が、どんどん離れていくかのように。
*
*
*
その夜、ベッドに横たわりながら天井を見つめる。
目を閉じると、「あなた」の笑顔が浮かんでくる。
楽しかった日々、何気ない会話、そしてあの坂道。
私はそっと呟いた。
「どこか知らない場所で、あなたに恋した。繰り返すメロディーを捧げる、その優しい魂に……」
眠りにつくと、夢の中で「あなた」と再会した。
三日月のベンチに並んで座り、星空を見上げている。
双子のように同じ景色を見つめ、同じ気持ちを共有している。
けれど、手を伸ばしても「あなた」に触れることはできなかった。
目が覚めると、涙で枕が濡れていた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を淡く照らしている。
「あなた」のいない現実が、再び胸に重くのしかかった。
学校に向かう道、教室の席、「あなた」がいた場所には空白が広がっていた。
クラスメートたちも寂しそうな表情を浮かべている。
休み時間に、友人たちと「あなた」の話題になる。
「本当に急だったよね。連絡くらい欲しかったのに」
「仕方ないよ。家庭の事情ならどうしようもないし」
私は黙ってその会話を聞いていた。
本当は「あなた」が何か抱えていたことに気づいていたのに、何もできなかった自分が悔しかった。
放課後、再び坂道を歩く。
夕焼けの空に、一番星が輝き始めていた。
あの日、「あなた」が見上げていた星空。
「星座ってさ、こんなに広がっているのに、どうしても触れられないんだよね」
彼女の言葉が蘇る。
触れられないけれど、確かに存在する星々。
「あなた」も今、どこかで同じ星空を見ているのだろうか。
私は立ち止まり、空に向かって手を伸ばした。
もちろん、星には届かない。
けれど、その光は私の元へ届いている。
「いつか、また会えるよね」
小さな声でそう呟くと、心が少しだけ軽くなった気がした。
家に帰ると、ポストに一通の手紙が入っていた。
差出人は「あなた」だった。
急いで封を開け、中の便箋を広げる。
そこには丁寧な字でメッセージが綴られていた。
「突然いなくなってごめんね。本当はちゃんと伝えたかったけど、言えなかった。
一緒に過ごした時間、本当に楽しかった。
あなたのおかげで毎日が輝いていたよ。
新しい場所でも頑張るから、あなたも元気でね。
またいつか会える日を楽しみにしています。
――ありがとう。」
手紙を読み終えると、温かい涙が頬を伝った。
「あなた」も同じ気持ちでいてくれたことが嬉しかった。
ポケットに手を入れると、もう「Je t'aime」の紙片はない。
けれど、その言葉は心の中にしっかりと刻まれている。
「私も、ありがとう」
その言葉を胸に、私は前を向いて歩き出す。
「あなた」がいなくても、彼女との思い出が私を支えてくれる。
星座のように、触れられなくても輝き続ける存在。
これからも、私は彼女に届くように、自分の道を進んでいこう。
夜空を見上げれば、同じ星が私たちをつないでくれる。
遠く離れていても、心はつながっていると信じて。
そしていつか、再び出会える日まで。
そしていつか、再び出会える日まで。
―――――――
あとがき
夏の終わりを感じると、どこか切ない気持ちが胸に広がり、そんな思いを物語に綴ってみました。
後から振り返れば取るに足らないことなのに、あの時はまるで人生のすべてがかかっているかのように思い詰めてしまう――そんな青春の感情を描けたらと願いながら書きました。
不思議なもので、縁というものは時折、思いもよらぬ形で再び巡ってくることがあります。彼女たちも、いつかどこかで、ひょっこり顔を合わせる日が来るかもしれませんね。
話はガラッと変わりますが、少しえっちな大人向けのファンタジー小説を書いています。
勇者と聖女に父を撃たれた魔王の娘が、魔王復活のために奮戦するお話です。
血沸き肉躍る冒険活劇です(嘘)
お時間がありましたら、ぜひお立ち寄りいただけると、とても嬉しいです。
・[はらはむ] 聖女を孕ませ、勇者で孕む。フタナリ王女の魔王復活
https://kakuyomu.jp/works/16818093083473631892
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