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七不思議、っていうのはどこの学校にもあるものだと思う。
定番だけれども、トイレの花子さんからはじまり、音楽室のベートーベンの肖像画が動くのだとか、理科室の人体標本が歩きまわるらしいとか、一段増える階段がある、果ては……七つ目を知っちゃうと災いが降りかかる……なんて怪談ばなしだ。
学校によってバリエーションはさまざまだが、私の中学校では「赤い本」というものが存在する。
中学校の校舎内、どこかに題名が書かれていない真っ赤な本がひっそりと存在して、その本を読んだ者は死んでしまうらしい。いかにもそれらしく仕上がっている話だけど、私は信じていない。
いや、信じていなかったのだ。
あの時、までは――……。
***
「千春、どうしたのよ」
放課後に教室に設置してある本棚をじっくりと眺めている私に、恵美が後ろから声をかけてきた。その本棚には絵本から始まり、図鑑、児童文学、小説などさまざまな本が並べられていた。けれど、お目当ての本はない。
「探している本がなくて」
私の言葉に、同じ七不思議を探る仲間である恵美はなんのことかピンときたようだ。
「本棚、ってことは……赤い本?」
「そう、ここだけじゃなくて……許可をもらって、他の教室や図書室も探してみたんだけど。ぜんぜん見つからない、やっぱりしょせんは噂だね」
オカルトちっくな話題はどうも人の興味を惹くようで、私がそれぞれのクラスを赤い本について探し回っていると、少し嫌な顔をしながらもだいたいの学生が本棚を一緒に調べてくれる。そして「赤い本」が自分のクラスにないことを知ると、ホッとしたのが半分、残念そうにするのが半分といった反応を示すのだ。
「中学校に入ってから、ずっと七不思議を探してるみたいだけど……、どれか1つでも本物を見たことがあるの?」
「ないよ、だからこんなに平気なんじゃない。あったらもっと騒いでるわよ」
私の言葉に対し、恵美はそれもそうかとばかりに頷きながら白いチョークを持った。黒板に「七不思議」と書く。さながら教科書のお手本ともいえるほどのその美しい文字は硬筆書写2級だそうで、たびたび自慢するだけのことはある。
恵美は私が調べた七不思議をチョークでそのまま書いていく。二宮金次郎の像、桜の木の下の遺体、プールの子供の霊、体育館……。
そこまで書いたところで、ピタリと恵美はチョークの手を止めた。
「体育館でも調べてたよね、なんだっけ」
「夜になったら勝手にボールがバウンドするってやつ」
「ああ、あれね」と恵美はつぶやき、バウンドするボール、と小さく書き添えた。
私は赤いチョークを持ち、ため息をつきながらすべてにバツをつけた。どれもこれも嘘だったからだ。
「でも、実際にこの赤い本があったらどうするの?」
「わからないけど……その時考えると思う」
そうして私たちは黒板の字を消し、帰る準備をした。
かたん、と本棚から小さく音が聞こえた気がして、そちらの方へ視線を投げた。本棚の様子に違和感を覚える。恵美は私の反応に、怪訝な表情を浮かべた。
「……どうしたの?」
私は何も答えることができなかった。今見たものが間違いないかを、じっと凝視し確認していたのだ。目の前の事象が信じられない。
そして私の視線の先を恵美が追った。
「ひっ……」
恵美は声をあげて、近くの机に足をぶつけながら、カバンを落とした。
私はそれを横目で認め、再び本棚へ視線を戻す。
間違いない、『赤い本』だ。
先ほど確認したときには、存在しなかったはずだ。もちろん、教室には私たちしかいないし、誰かが入ってきたらすぐにわかるであろう。
さっきまで、赤い本などなかった。
いったいどうして。
……いつの間に、どうやって?
息を殺しながら、ゆっくりと近づいた。
本を手に取ろうと背に指が触れた瞬間に私は動きを止めた。
気味が悪いのだ。なんとも形容しがたいが、周辺一帯から私に突き刺さらんばかりの異様な視線を感じる。私がその本を手に取るのを、今か今かと待っているかのように。引き抜きたくても、引き抜けない。全身に黒い手のようなものが絡みつき、皮膚の中を這いずりまわり、そして私の首を締め付けようとしてくるかのような感覚にとらわれる。本を引き出すのを躊躇するほどの、負と死の匂いをこの本の辺りから感じる。
「千春、やめよう」
恵美の手が私の肩に置かれ、私は我にかえった。
そう、そうだ。
唯一感じる、いままでとは全く違う本当の……。
現実に引き戻され、私はこくこくと頷いた。背中は汗でびっしょりで、冷えていた。どくどくと打ち鳴らすように響く心臓の鼓動を落ち着かせるため、深呼吸しながら何度も頷くことしかできなかった。
「帰ろう」
恵美は私の腕を引っ張る。確かにこの本には関わらず、おとなしく引き下がるべきだろう。私たちはこの日、赤い本は見送り忘れることにして学校を後にした。
翌日。
赤い本は教室の本棚から消えていた。いつもは賑やかな教室が面倒に感じていたが、今日はいちだんとその平穏というべき空気感に安心する。私と恵美は昨日の赤い本の話はあえてしなかった。どうしても、そんな気分でもなくて、あまり話さずに帰ろうと机の中の教科書を弾き出した時、手に何かが当たる。
……机の中に何かが入っている。
こわごわと取り出してみると、それはキレイに折りたたまれたメモだった。
『体育館裏にきてください』
昨日の件があったからか、妙にぞくりとくる。
なによりそのメモには名前の記載はなく、定規で線を引かれて書いてある独特の文字だ。
何の意図があって、こんなものを私の机に入れるのか。
少し迷った末に、私は早々に教室を出て体育館裏へと行ってみた。
だが、誰もいない。辺りをぐるりと見渡してみる。サッカー部が活動しているのであろう、グランドよりの遠くから喧噪が聞こえてきた。それ以外には誰も、何もない。隠れるような場所もなく、誰かがいたような形跡も感じられなかった。
いたずらだったのだろうか。
底知れぬ気持ち悪さを噛みしめながら、帰ろうとしたがカバンはまだ教室内に置いたままだったことを思い出した。
昨日の今日だ。戻りたくはないが、家の鍵もはいっている。嫌でも教室には戻らなければいけない。
息を呑み、本棚を見ないように自分の机へと駆け寄る。
しかし、背後の本棚が何かを訴えかけているように思え、やっぱり気になってそろそろと振り向いてみた。
思った通り、見たくもないものが視界に入る。
『赤い本』だ。
どうして。
どうして、これが再び現れたのか。
先ほど教室を出るときにはなかったはずだ。
私はその赤い本に近づいた。
手に取る気はなかったが、よく見て見たかったのだ。
けれども、昨日のような恐怖感はまるでない。
不思議に思い、本の背表紙に触れてみた。
……違う、これは昨日の赤い本ではない。
ザラザラとした高級和紙の質感、赤茶色の色合い、文庫本よりは少しだけ大きいサイズ感。
似ているが、まったく違う。
昨日のような不穏な様子がこの本からは何も感じ取れない。
引き抜いて、パラパラとめくる。
中は白紙に近かったが、ところどころに走り書きが書かれていた。
内容は変哲もない、ただの授業内容のようなものだった。
道理で違うはずである。これはそれらしく似せたノートだ。
赤いブックカバーをかけてあり、赤い本に見えるように装った、ただのノートだ。
ノートには名前がなかったが、ところどころに書かれている文字には見覚えがある……。
こんな綺麗な文字は、たった一人しかいない。
「恵美……」
胸が早鐘を打つ。駆け巡る脈拍が速くなる。
どうして、恵美のノートがここに?
赤い本を模したノートをここに置いて、何の意味が?
一度思考を整理するために、本を棚に戻す。
私に知らせず……いや、持っていったと知られたくなかったのかもしれない。もしかしたら、さっきの呼び出しメモは恵美が置いたのかもしれない。私をわざわざ呼び出して、時間を稼ぐ……でもどうして?
……考えられることはたったひとつ、恵美も赤い本をずっと待っていたのだ。
昨日、夕方に現れた赤い本が再び、今日も現れた。
私に先に赤い本を取られる可能性を考え、ノートを差し替えたのだとしたら? 万が一を考え、一人で読むために。
私は昨日、あの場で止めたが、その後に彼女は考え直し……興味本位から諦めなかったとしたら? 似せたノートを、昨日の時点で用意しておいて。
そう考えれば、すべてのつじつまは合う。
私は恵美の家へと走った。
幸いにも彼女に家は学校からさほど遠くはない。今すぐに行けば読む前に回収できるかもしれない。昨日の手に取る前ですら吐き気を催すほどの恐怖をもたらしたあの赤い本は、人智を超える何かがある。本を開くことで、読むことで、何が起こるかはわからないが、とにかくあの赤い本は死を呼ぶ。そんな気がしてならないのだ。
閑静な住宅街の中にある一戸建ての白い外壁、二階建て。薄い茶色の三角屋根に柔らかく風で揺れる大きな落葉樹がある、恵美の家が見えてきた。
道路から見える恵美の部屋の場所を私は見上げた。
どうやら部屋にいるようだ、窓が開いてカーテンが風で揺れている。陰となっていたが、恵美らしき人物が机に座っているのが見えた。
「恵美、恵美!」
外から何度か声をかけたが、恵美は反応しなかった。
仕方なく、恵美の家のチャイムを鳴らす。
するとガチャリと玄関ドアが開いて、おばさんが顔を出した。
「あら、千春ちゃん。いらっしゃい」
私をみると、おばさんの声が1オクターブほど撥ねた。
「あの、恵美ちゃんと一緒に、宿題をやろうと思って」
とっさに嘘をついたが、バレはしないだろう。小学校から仲がいいことが今になって役に立つ。
「そうなのね。恵美、恵美! 千春ちゃんよ」
おばさんが、部屋にいるであろう恵美に向かって階段下から大きく声をかけた。けれども、しん、と静まり返った階上からは何も聞こえない。
嫌な、予感がする。
「聞こえてないのかしら」
そのおばさんの言葉に、私は何も答えることができなかった。
階段上から、得も知れぬ妙な気配がする。その感覚に支配され、私は声が出てこなかったのだ。なんとも表現しがたく、それは息苦しく他よりも黒っぽくモヤがかって空気が違う。
そう、暗いのではない、昏いのだ。
再び心臓が早鐘を打つ。
脳も心も、これ以上近づくなと警告をするように。
おばさんは、この異様な雰囲気に何も気づかないのだろうか?
私はそのまま、反射的におばさんの服をとっさに掴もうと手を挙げたが、できずにそのまま空を掴んだ。おばさんはタンタンと軽やかな足取りで階上へと上がっていく。
「恵美」
おばさんが再び、愛娘の名前を呼ぶ明るい声が聞こえてきた。
「ちょっと、恵美ったら」
少しだけ語気が強まった、けれども妙に明るい声。
今はそれすらも気持ちの悪さをよりいっそう引き立たせている。
やがて、ごん、と固いものが床に落ちたような音が響いた。
何か大きなものが倒れて、そのまま動かなくなった、そんな音が。
そのまま静寂が再び私を襲う。
息がひゅっと止まる。
「おばさん……恵美?」
おそらく恵美の部屋にいるだろう二人に玄関から声をかけたが、応答はない。耳鳴りがしそうなほどの静かな家の中が怖く感じる。ぞわりと粟立つ。今、この場に、真後ろに誰かいるのではないだろうかと錯覚するほどの異様な空気。まだ夕方だというのにやたらに暗い。昏い。足がその場に縫い付けられたように動かず、息が苦しい。
でも、確かめたい。
二人ともが、いったい今、どのような状況なのか。
「ね、ねぇ……。どう……したの?」
つっかえつっかえ絞り出した私の声は、震えていた。
闇に向かって声をかける。
何も……なんの音すらも返ってこない。
そう、ならば今すぐに帰ってしまえばいい。
家からか、スマホからか、とにかく行かずに助けを呼んでしまえばいいのだ。
これ以上、踏み込まない方がいいと思うのに、行ってはいけないと思うのに……抗えなかった。
ここで恵美の部屋へ向かわねば、なにもかも永遠に知らぬままだと。
好奇心が、行けとばかりに脳へ働きかける。
ようやく足を動かし、壁に付けた手で身体を支えながらすり足のような形で歩く。
ぎし、ぎし、ぎし……と、階段の木が軋む音を響かせながら、私は落ちぬように、及び腰で階段を上がっていく。
ただ恵美の部屋へ向かっているだけなのに、その不穏な空気に圧倒され吐き戻してしまいそうだ。
やっとの思いで、恵美の部屋の白い扉の前に立つ。
「おばさん」
きっと返事がないだろうとわかっていても、声をかけてみた。
そこには何かがいて、そして誰もいない。
扉がほの白く闇に浮かんでいるように思える。ぎいい、と蝶番が鳴らせながらゆっくり開いた。
視界に入ったのは机に突っ伏したまま意識を失っている恵美。そしてその傍らにはおばさんが倒れていた。ただ、部屋の中のものが視界の邪魔をしていて、入り口からは倒れたということがわかるだけで、おばさんの様子はほとんど見えなかった。
遠目からわかったが、幸いにも机の上に置かれた赤い本は閉じられている。
ようやくそこで私は大きく息を吸った。根拠らしい根拠とはいえないが、ページが開いてないなら、読むことはできない……それならば今は何も起きないだろう。周りを警戒しながら恵美の方へ向かった。どこへ視線をやっても誰もいないはずなのに、誰かいるのではという気すらしてしまうこの独特の空気は耐えがたい。
「恵美」
本から視線を外して、恵美を見た。
死んでいる、とは思いたくなかった。
身体をゆすろうとしてほんの一瞬だけ触れた身体はまだ温かかったから、ただ意識がないだけだと思いたかった。
二人とも首が変な方向に曲がってさえいなければ。
酸っぱい胃液がこみ上げる。
それをなんとか堪え、無駄だとはわかっているのに、救急車を呼ぶために、這いずるようにいったんこの部屋を出ることにした。
そうして部屋のドアのふちに手をかけたところで、私の真後ろに気配を感じた。
「ちはる」
恵美のはっきりとした声が聞こえ、思わず振り向いてしまった。
ああ、すべて気のせいで、やはり生きているかもしれない、と一瞬だけ思ってしまったのだ。
今の信じがたい状況から逃れたかっただけなのかもしれない。
間違いなくそうではないとわかっていても、なんでもいいから縋りたかったのだと思う。
生ぬるい風が窓から入ってきた。
パラパラとその風で赤い本がめくられる。
本の中身が、見えてしまった。
開いたページを視界の端でとらえ、絶望にかられる。そのページからゆっくり、ゆっくりと静かに土気色の黒い手が伸びるように生えてきた。変色してところどころが破け裂け……あげくには皮膚が透け、なにより青白い血管がどくどくと脈打って見える。一つの手が生えたかと思ったら、次にもう一本が生えてくる。どちらも音を立てず、緩やかにしのぶように生えてくる。明らかに生きてはいまい皮膚の色をしているにも関わらず、それは単独で生あるもののような動きをして。
手は本の端を掴み、ずるり、と這い上がる。どう考えてもあり得ない角度で折れ曲がっているのに、這い上がってくるのだ。
私のからからになった喉から、声は一切でなかった。
この世から生あるものが失われたかのような静寂が私を包む。
悪夢のような目の前の事象。
本の横にいた恵美がぐらりと揺れる。
その体そのものはあちら側を向いているのに、恵美と目が合った。
それは恵美であり、もはや恵美ではなかったのだ。
「あ……」
声にならない声をあげ、思わず後ずさった。頬を伝う暖かな感触は、涙だった。おばさん……だったもの、がゆっくりと起き上がる。
逃げなければ、逃げなければ。
でも自分のものでないかのように、手足は動かない。
動けと脳で必死に訴えているのに、いうことを効かない。
悲鳴も出すことができない、かちかちと奥歯を鳴らすのがやっとだ。
やっと音が戻ったと思ったら、ぎし、ぎし、ぎし……と、それは何かが床を軋む音だった。
音の方向である赤い本へと視線を戻した時、すでに生え伸びていた手は消えていた。どこにいったのか、と部屋を見渡すと、足にひどく冷えたなにかが当たる。
手が絡みついてくる。無数の手だ。全身を凍るような冷たさが駆け巡り、伝う涙は床に零れ落ち、息を吸っては止まるを繰り返した。
手はそのまま私へ這いあがってくる。
首元に届いたその手を振り払うことなど、もはやこの状態の私にできるはずもない。
目前に迫る闇の中に、ひときわ浮いている赤黒い瞳と目があった。
了
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