ただよう世界の中で

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「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。 「うるせえ」  ラズロはぼやきながら膝を曲げると、思いきり床を蹴った。  耳元で空気がごぉっと鳴り、身体がすべるように通路の中に入っていく。  無重量空間であっても空気抵抗は無視できない。なるべく身体がまっすぐになるように意識し、切り裂くように空中を進んでいった。  同じ年ごろの少年たちがハイスクールに通うなか、ラズロはすでに五年は無重量環境で仕事をしていた。小柄な身体つきに不便を感じることもあるが、その扱いには慣れているつもりだ。  接近する通路のつきあたりとの距離を目測する。  カウントダウンの必要すらない。  感覚で「いま」と思ったタイミングで足を振り、その反動で身体を回転させた。  全身を使って空力ブレーキをかける。  それだけでは不十分なので、肩を壁に軽くこすりつけて、姿勢制御と同時に速度を殺していった。  ずだん、と音を立ててつきあたりに着地する。  衝撃は膝で吸収。  目は次の移動先に向けて、すでに距離感覚を測っていた。  一瞬、身体を浮かせると、近くに設置されている手すりに足をかける。  身体の重心をなめらかに移動させ、その中心を射抜くように手すりを蹴り離した。  ***  そんなラズロの様子を、モニター越しにオレシャは見ていた。  口には笑みを浮かべている。  同じ画面を見ていた隊員が、ラズロの動きについて感想を述べた。 「悪くない動きをしていますね。でも」  手にしたボードをのぞき込む。そこには訓練生応募者の成績が書いてあるはずだ。 「なんでゴール到達が許容時間をオーバーするんでしょう」 「うふふ」  オレシャは楽しげな声をだした。  流れるような金髪を後ろでまとめたその容姿は、いつだって、すれ違う男たちの目線をくぎ付けにさせる。  派手さはなく、どちらかというとカフェで読書でもしていそうな印象を与える顔立ちだが、実際はその逆。  月軌道法執行機関に所属するカウンターテロリズム部隊。無重量戦闘を得意とする「Zero Gravity Assault Team」  略してZATの隊長のひとりだった。 「訓練内容のブリーフィングのとき、わたし言ったのよね」 「はい?」 「わたしなら、こんな空間移動ぐらい、手を使わないでもクリアできる」 「それを真に受けたっていうんですか?」  隊員が画面に顔を近づけた。 「だからこの子、一回も手を使ってないの」  モニターの中では、カーブした通路内を、壁を蹴りながら進むラズロの姿があった。 「そりゃあ、隊長はできるかもしれませんが、おれは自信ありま……す」  オレシャに睨みつけられた隊員の顔色が悪くなる。  午後のトレーニング内容が決まったわね、とオレシャは心の中でスケジュールを入力した。  今日は久しぶりに厳しくいこう。 「はい。時間ぎれ」  マイクのスイッチをオンにして、訓練場にアナウンスする。 「チャンスは残り二回です」  ラズロは、そこいらにあるものに当たろうとしたがなにもなく、壁に蹴りを入れることで妥協したようだ。  反動でクルクルと回る青年を見ながら、オレシャはもうひと声吹き込んだ。 「またどうぞ」  ***  月軌道をまわるコロニーのうちのひとつ、「トヨタマヒメ」  ニッポンという国が出資した、ものづくり企業が多く入っているコロニーだ。  ラズロは、そのトヨタマヒメに付随して移動する、フロートと呼ばれる施設のひとつで配管補修工事をおこなっていた。  自転はしていないから、遠心力という名の疑似重力も発生していない。  人体は疑似重力による負荷がないと筋肉や骨が弱っていくが、ガスや液体、それらを加工する機械にとっては不要なものだ。  自転をおこなうメインコロニーでは人間が活動し、周囲に浮かぶフロート群には、人間の活動を補佐する施設がおさまっている。  だが、そこを職場にしている人間もいるのだ。 「で、どうだったんだよ?」  社長のマルコが、スパナを投げてよこす。  落ちることなく空中を漂ってきたスパナを、ラズロは手でつかんだ。 「また来週だよ」 「だっせえ」 「ほっとけ」  言い返しながらボルトをはずすと、浮遊しないように腰の磁石にくっつけた。  手を使って次のボルトの位置まで移動しようとして、やめる。  仕事中も、なるべく手を使わずに身体をコントロールする練習をしているのだ。 「訓練生になるってだけでも厳しいもんだな」  マルコも腹が出ているとは思えない、なめらかな動きで次々とボルトをはずしていった。  社長といっても、社員はラズロひとりだけの小さな配管業者だ。  宇宙空間においての気体管理は、場合によっては人命よりも優先される。  管理自体は、各コロニーの管制センターにておこなわれるが、実際の工事はマルコの会社のような下請けに依頼がくる。  工事の間だけ気体を止めてもらい、古い配管をはずして新しい配管をつけなおす。  また気体を流しなおして、異常がなければ工事は終了だ。  これが塩素のような有毒ガスなら話は別だが、今日は通気用ダクトだから簡単な工事だった。 「ま、やるだけやってみろよ。学歴のないやつが法執行機関で働く機会なんて、そうそうないからな」 「ああ」  ラズロがZATの訓練生に応募しようと思ったのは二か月前。  配管工の仕事がいやだったわけではない。  ZATに憧れがあったわけでもない。  暇つぶしに見ていたタブレットの画面の端に表示された「訓練生募集!」の広告を見た瞬間、「おれならできるな」と思っただけだ。  いちおうマルコに話をしたところ、「いいんじゃね?」とのことだったので、さっそく応募した。  選抜試験は簡単な計算や作文、基礎的な体力測定などからスタートし、そのあたりは問題なくクリアした。  一緒に応募してきた連中も、そこで落ちる者はほとんどいなかったが、三次元戦闘シミュレーターが登場した瞬間、脱落者が増えていった。  いわゆる宇宙酔いというやつだ。  上下を知覚できない空間にいると、動物の脳は混乱をきたす。  ましてや、激しい動きをするとなると、シミュレーターで映像を見るだけで嘔吐する者が続出した。  無重量環境にいれば慣れてくるものだが、そんな猶予も与えず、応募者をいきなりふるい落としにきたように感じられる。  この選抜試験をデザインした人間の性格の悪さを見た思いだった。  なぜか、ブリーフィングをした女隊長の顔が脳裏に浮かぶ。 「あと何回やれるんだ?」 「二回落ちたから、あと二回」  ラズロがいまチャレンジしているのが最終試験だ。  週に一回ずつで一か月、つまり計四回のチャンスを与えられ、一度もクリアできない者は脱落となる。  内容は簡単。  制限時間内に、無重量下の訓練場に設置された、曲がりくねった通路をとおりきるだけだ。  ラズロのタイムは、過去二回とも数秒オーバーで失格となっていた。 「見てろよ」  ブリーフィングのときの、こちらを小バカにするような目つき。  自分は優秀で、おまえは未熟だと思っていることを隠そうともしない表情。  ラズロの目標は、あのオレシャという隊長の鼻を明かすという、あらぬ方向へとねじ曲がっていた。  ***  マイクのスイッチをオンにする。 「チャンスは残り一回です」  どうしても弾んだ声になってしまうが、自分ではどうしようもない。  モニター越しに悔しがっている小柄な訓練生の姿を見ていると、楽しくて仕方がないのだから。  たしか、ラズロといったか。姓はないようだ。  ブリーフィングにて、オレシャが「ま、わたしなら手を使わないでクリアできるけどね」と言った時の、反抗的なあの目つき。 「ゾクゾクしちゃう」  後ろで、選抜担当の隊員が一歩下がるのがわかった。  成績の良い学校を出て、自分は優秀だと思い込んでいる新人の心を折るとき。  経験豊かで、だれよりも有能だと思い込んでいる上司の自信をくじくとき。  オレシャはなんとも言えない心地よさを感じる。  だがそれ以上に、心を折らず、自信がくじかれず、立ち向かってくる者の姿にこそ、最高の悦びを覚えるのだった。  部下の隊員たちから「変態」と陰口を叩かれていることは知っているが、事実だから否定もしない。  ただ、翌週のトレーニング内容が、ちょっと重たくなるだけだ。  ちなみに、そのトレーニングはオレシャも率先してこなしているのだから、だれからも文句は出ない。 「意地をはるのはいいけど、このままじゃ落ちちゃうわよ」  マイクを切っているからその声が届いたはずもないが、モニターの向こうでラズロが親指を下に向けていた。  自分の部下にして叩き潰してやりたい。  なんだか胸がいっぱいだった。 「緊急!」  アナウンスとともに、モニタルーム内にアラートが鳴り響いた。 「コロニースクルド、フロートBにて人質事件発生! 現場にて待機要請!」  すでにオレシャと選抜担当の隊員は、部屋を飛び出している。  控室でそれぞれの装備を身に着けると、訓練施設を出ようとロビーに向かった。  隊長のオレシャは、その間、管制と通信をして情報を集めつづけ、同時にZAT本部庁舎から現場に向かっている部下たちに伝達する。 「現場はコロニー付属のフロートB。設備は倉庫。円柱型で半径五十。長さ二百」  数値の単位はメートルで、現場の広さを伝えている。 「扱い物は工事資材と梱包材。燃料等を含む液体はなし。粉塵ものなし。棚は構造体との固定式。扱い物は磁力での固定」  ZATの訓練施設と現場は近い。  なぜなら、無重量体験しようと思うとメインコロニーの外にいる必要があるからだ。  本部庁舎は、しっかり遠心力と筋肉への負荷を感じられるメインコロニー内にあるので、オレシャと選抜担当の隊員は、他のメンバーよりも先に到着するだろう。 「犯人の人数は三。人質の人数は五。武装は拳銃三丁を確認。爆発物は不明」  メインコロニーの周囲に浮かぶフロートたちの間は、伸縮性のある素材で作られたチューブでつながっている。わざわざ、宇宙空間を移動するのに乗り物を使う手間を省くためだ。  そのチューブ内には一般人が数名いたが、密度は高くない。  現場に近づくにつれて、法執行機関の職員が避難誘導をする姿を見かけた。じきに無人になるだろう。  近くにあった手すりを強く蹴って、最後のひと飛びを移動しおえた。 「現場隣にあるフロート内の工場にて対応本部設置中。わたしはいま着いた」  人質事件が起きているフロートの隣のフロートに入り、中にある工場の入口を開けると、法執行機関によって本部設営がはじまったばかりだった  後ろを振り向くと、同行していた隊員が追いついてきていない。  やはりまだ、訓練メニューが足りないようだ。  ***  基本的には、軌道上に浮かぶコロニーやフロートでのテロは成功しない。  理由はふたつある。  コロニー内の各エリアは隔壁で区切られており、火災や爆発、放射性物質から生物汚染まで、なにがあってもエリア単位で抑え込める、というのがひとつ。  もうひとつは、とある空間を制圧したとしても、その場所の空気を抜かれてしまえば、犯人が鉱物でもないかぎりは、いつか力尽きるからである。  人質の命は最重要とされない。  リソースが限られ、真空の宇宙空間で生活する以上は、ひとりよりはふたり、三人よりは四人の命を救う判断が重視されるからだ。  ならば、人質事件が起きるたびに人質ごと犯人を窒息死させまくっているかというと、そうではない。  人質の命を救う最大限の努力をしているから、ではなく、おのれの主張に命をかけているような連中にとっての抑止力にならないからだ。  つまり、人質を巻き添えにして死ぬことで、コロニー世界に恐怖を与える行為に対抗できない。  ZATはカウンターテロリズム部隊。  テロリストに恐怖を与えるべく組織されたのだった。  ***  オレシャ率いる、コロニースクルドのZATは合計で十六人。  四人でひとつのチームを作るので、ブルー、レッド、グリーン、イエローの四チームで動く。  オレシャは隊長にして、ブルーチームのリーダーだった。 「現在、法執行機関が犯人との対話をしている。カメラをつぶされて中の様子は不明」  待機用にあてがわれた工場の片隅で、隊員たちに向かって説明をおこなう。  全員、黒いタクティカルベストの上に、三次元ポジショニングシステムという装備を身に着けていた。  胸の前後、両肩、腰の四方、靴に装着するもので、その名のとおり、空気を噴射して無重量空間での運動性を向上させるものだ。  銃器は小型のサブマシンガンを手に持ち、サイドアームとして拳銃を腹のホルスターにさしこんでいる。  作戦時には、空気汚染や粉塵が作戦遂行能力に影響を出さないようガスマスクを装着するが、いまは邪魔になるので磁力で首元にくっつけていた。 「先進国による月資源の独占がどうとか言ってるらしいけど、興味ないから説明はしない。ゴーがかかり次第、いつものように対処するわ」  全員がうなずくのを確認してから、タブレットから壁に投射した倉庫の構造図を指さす。 「犯人たちは倉庫内にいるから、フロートの隔壁から倉庫の外までは問題なし。倉庫の作業員用入り口は中央にひとつ。プラスチック素材のスライドドア。入ると事務所があって、その奥が倉庫。イエロー担当」 「了解」  イエローチームのリーダーが返事をする。 「荷物の搬入用と搬出用がひとつずつ。どちらもシャッターが閉まっていて、素材はステンレス。入るとそのまま倉庫に出る。割り当ては……」 「おい、ちょっと待て!」  とつぜん、工場の外から怒声が聞こえた。警備担当者のものだ。  犯人に動きがあったのかと、隊員たちに緊張がはしる。 「うるせえ、どけ!」  青年の声。そして「ぐあっ」という警備担当のうめき。 「おやおや」  オレシャは、そっとつぶやいた。 「困ったボクちゃんね」  工場のスライドドアが開くと、その向こうには、さきほどまで楽しく眺めていた訓練生応募者の姿があった。  しかし、いまは仕事中だ。  作戦遂行の阻害要因でしかない。 「邪魔。帰りなさい」  意見ではない。  命令を告げた。  その口調にラズロは一瞬ひるんだようだが、すぐにオレシャを睨みつけるような表情に戻った。 「水道管がはずれてる。そこから中の様子がわかる」 「ふん?」  構造図を見ると、倉庫の外にある水タンクから、倉庫内の事務所の中までパイプが伸びていた。 「なんで知ってるの?」 「うちの会社で工事中だからだ。きのう配管をはずして、今日、新しいのをつける予定だった」  オレシャはラズロを手招きした。  構造図を見やすい位置までこさせる。 「説明して」 「水はタンクで止めていて、配管はない状態」  ラズロが指で倉庫の壁を指さす。 「配管が通っていた穴は、パテを詰めてあるだけだから簡単に削れる」 「移動式カメラを出して」  隊員に指示して、丸い形状のカメラを出させた。  小さなスラスターがついているので、無重量空間を移動する機能をもっている。 「このサイズが入れる?」 「いける」 「配管の先。壁の向こうはどうなってた?」 「配管は曲がって壁に設置されている水パック供給機に接続されてた。位置を変えたいという要望があったから、いまは供給機自体もはずれてる」 「よし」  オレシャは、隊員たちを見まわした。 「イエローは作業員用入口でスタンバイ。レッド、搬入用、グリーン、搬出用。ブルーは水道管のあった壁」 「了解」  全員がうなずく。 「機関本部に偵察許可を得るわ。その間に可塑性爆薬をセット。すでに倉庫内は陰圧になっている。偵察結果で配置変更の可能性あり。いって」  隊員たちが一斉に動き出す。  オレシャと一緒に取り残されたラズロは、状況に追いつけなくなっているようで、去っていく隊員たちの後ろ姿を見ていた。 「なにしてるの?」  まるでラズロが、ものすごい失敗をしているかのような声で告げる。 「パテを削る準備をしなさい」  ***  施工道具は持っていたので、パテを削るのは簡単だった。  いつも道具を持ち歩いているわけではない。  施工をしにきたのだから、持っていて当然というだけだ。  さっきオレシャが言っていたが、倉庫内は陰圧になっているので、パテの削りかすは、すうっと倉庫の中に流れていった。 「音を立てないでやって。でも早くしなさい」  という指示なんだか命令なんだかがオレシャからあったので、そのとおりにこなしてやった。  いまは、倉庫内に入れたカメラの操作と、モニターを見ながら小声で通信しあっている隊員たちを、離れた場所から眺めている。  穴の周囲には、粘土のような爆薬が円を描いて付着している。  タブレットの動画コンテンツではよく見るが、実際の爆薬を見るのは初めてだった。 「工場に戻って」  オレシャが「まだいたの?」というように、ラズロを追い出しにかかる。  なにか言い返してやりたいが、壁の向こうに人質を取ったテロリストがいる状況で、特殊部隊の隊長に意見するほど、愚かではないつもりだ。 「見ていていいか?」  このフロートの入り口にある隔壁のあたりを指さす。  オレシャはすこしだけ考え、「好きにしなさい」と答えた。  ラズロは軽く壁を足でおしやり、隔壁までふわふわと流れていった。  この位置からだと、事務所の入り口と、水タンクにいる、ふたつのチームを目視できる。 「本部より、ゴーがきた。スタンバイ」  オレシャのひと声で隊員たちが爆薬から距離をとる。  全員、ガスマスクを装着した。 「突入」  鼓膜がしびれるような炸裂音に、ラズロは身体を硬直させた。  続いてごぉっという空気の音とともに、粉砕された扉の破片が倉庫内に流れ込んでいく。内部を陰圧にした理由を理解した。  隊員たちが、なにかを倉庫内に投げ込み、一拍おいて突入を開始した。  ***  フラッシュバンの炸裂音に全身を包まれながら、オレシャは事務所に突入した。  事務所内に犯人がいないことはわかっているが、突入位置を特定されないようにするために、すべてのチームが強烈な音と光を発するフラッシュバンを投げ込んでいた。  その先には倉庫との間に大きなアクリル製の窓があるが、偵察の際に一緒に送り込んでおいた小型ドローンが、突入と同時に爆発して粉々にしている。  空中にただよう金属やアクリルの破片の中をするどく移動し、突入から二秒で倉庫内に到達。  三次元ポジショニングシステムの噴射によって反転し、足の裏にある同システムの噴射で空中に停止。  事務所は円柱型をしている倉庫の中央にあるので、イエローが右を担当、オレシャ率いるブルーは左に向かった。  視線の先では、搬入口から突入してきたレッドが見える。  その手前に、棚の陰に隠れて拳銃を構えるふたりの男の姿。  銃口はふたつともこちらに向いている。  だが、オレシャもすでに照準済みだ。  ひとりに向けて短く二発撃った。  本来ならば反動で回転してしまうところだが、ポジショニングシステムによって射撃姿勢が維持される。  顔に被弾した犯人は、赤い霧を空中にまき散らしながら棚から離れてただよい始めた。こちらはもう脅威にはならない。 「ひとり無力化!」  ふたりめには他の隊員が発砲したが、棚の隙間に身を隠されてしまった。  その先には人質たちがいるはずだ。  イエローが向かった方向から発砲音。  つづいて状況を知らせる通信があった。 「無力化!」  これでふたり。あとは棚に隠れているひとりだけだ。  偵察によって、棚の奥にある区画には人質たちがいることが確認されている。  気持ちは焦るが、作戦がはじまった瞬間から「迷う」という選択肢はない。 「フラッシュバン!」 「了解!」  後方にいる隊員がバンを手に取る。  投げようとした瞬間、犯人が飛び出してきた。  すかさず射撃しようとして、様子がおかしいことに気づく。  首から血を噴き出している。  銃口を向けたまま、すばやく観察する。  人質のひとりかと疑ったが、間違いなく本部から共有された犯人の顔だ。首が切り裂かれている?  なにがおきたのか。 「レッド、狙っておけ。ブルーこい」  ポジショニングシステムで空中を蹴り、人質たちがいる区画に向かう。  とつぜん撃たれても応射できる姿勢で、中の様子を探っていく。  そこには両手をあげた状態の人質五名が確認できた。 「動かないで!」  中にはほっとした顔をした人質もいたが、オレシャのそのひと声で表情がこわばった。  この中に犯人が混じっていると思っているわけではない。  ただ、勝手に動かれると状況をコントロールできなくなるので、その場にとどまっていてほしいだけだ。 「うごかねえよ」  人質のひとりが両手をあげたまま、落ち着いた声をだした。  中年というよりも初老に近い年齢か。  髪は白くなり、たれ目がちで腹が出ている。 「そう言ってある」  その男の手には、刃を下にしてナイフが握られていた。  どうやら、犯人の喉を切り裂いたのは、この人物のようだ。 「犯人、無力化しました」 「了解。本部、制圧完了」  本部からは承諾の返答と、人質を工場まで移送するよう指示があった。 「いまからみなさんを隣のフロートへ連れていきます。あなた、そのナイフを離して」 「あいよ」  男が手を離すと、血の付いたナイフが空中を漂い始めた。 「おやっさん!」  背後から声。  視線をやると、事務所からラズロがこちらに向かってくるところだった。  ただよう破片から身を守るためにゴーグルとマスクをつけている。  ラズロは一度の跳躍で正確にオレシャの横にやってくると、近くの棚に手をかけて停止した。 「おう、ラズロ。おまえ、なにやってんだ?」 「仕事しにきたら、事件に巻き込まれてる間抜けな社長がいたんだよ」 「そいつぁ、間抜けだな」  男が、愉快そうに笑う。どうやら、ラズロが籍を置いている会社の社長らしい。  打ち合わせをしにきたら、倉庫スタッフと一緒に人質にとられたといったところだろう。 「ラッキーだったじゃねえか。本物を近くで見られてよ」  社長が、親指を立ててオレシャの方を示す。 「もう手抜きなんてできねえな」  そのひと言で、ラズロがバツの悪そうな表情を浮かべる。  手抜き?  最終試験のこと? 「ああ、なるほど」  オレシャは小さくつぶやいた。  ラズロは選抜試験を受けたものの、もし受かったら、この社長の会社を辞めねばならなくなる。  覚悟の足りなさといえばそれまでだが、進むべき道と、世話になっている社長との間で迷いが生じていたのだろう。 「ふ、ふふ」  自分が作った試験で、手抜きをされていた。  その事実に、まわりに法執行機関の職員たちがいることも忘れて、オレシャは身体を震わせた。 「本当に、叩き潰してやりたいわあ」  何人かがビクッとしながらこちらを向き、オレシャの表情を見た瞬間、静かに離れていった。  ***  ずだん、と音を立ててつきあたりに着地する。  片足はすでに手すりに乗せていて、最低限の動きで次の跳躍へ移った。  通路内部の景色が、勢いよく後ろに流れていく。  次の着地。  膝で衝撃を殺し終えると同時に、次の跳躍の準備が整っている。  ひとつも失敗することなく、最後の着地点を目視した。  思いきり壁を蹴って、全力で跳びあがる。  最高速度で頭からゴールへ向かい、壁にぶつかる瞬間、足を振って身体を回転させた。  背中と壁が激突し、その衝撃音が訓練場内に響き渡る。  結果など見なくてもわかっていた。  こほ、とラズロは息を吐くと、カメラに向かって両手でFサインを向ける。 「合格」  どこか楽しげに声は告げた。
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