夏のハナビとカナエの夢

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 見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。  なにも書かれていない、そこだけ空白になっているページだ。  日記の著者は老衰でペンを持てなくなるまで、毎日、欠かすことなく日々の出来事を書きつづけていた。  病気や出産でその日に書くことができなくても、かならず後日、「何月何日に記す」と補足を入れたうえでさかのぼって書いている。  九歳から八十二歳までのうち、空白の日など存在しない。  その一ページをのぞいては。 「いたっ!」  ガンッと蔵の壁におでこをぶつけた。  ハナビは手でさすろうとしたが、両手に紙の束を抱えているので、じんじんと伝わる痛みを我慢するしかない。  背中まである黒髪を赤いゴムで雑にまとめており、セールでまとめ買いしたイエローの袖なしワンピースを身につけている。  十九年の人生で、あまり服装を意識したことはない。ファッションにお金をかけるだけの経済力も持ち合わせていなかった。 「ハナビさん。すごい音したけど、だいじょうぶ?」  蔵の外からリョウスケが、心配そうな顔で覗き込んでくる。  ハナビの母語はフランス語なので、日本人のリョウスケがなにを言っているのかはわからない。その表情から意図を察し、フランス語で「大丈夫です」とだけ返して蔵の扉をくぐった。  うす暗い蔵の中から真夏の庭に出ると、目を開けていられないほどのまぶしさに襲われた。  ハナビの生まれ育った地中海沿岸とは違い、日本の夏は湿度が高い。まだ早朝だというのに、たちまち額から汗が噴き出してきた。 「また日記を読み返してたの?」  リョウスケが、携帯端末の音声翻訳機能を使って尋ねてくる。  資料を手渡しながらうなずく。 「ウィ」  リョウスケはハナビより一歳年下らしい。  大人しい印象を感じさせる青年だが、ハナビが重たいと思っていた紙の束を軽々と扱っていて、すこしズルい。  アクアブルーのTシャツと、カーキ色のハーフパンツという出で立ちで、こちらも汗をかきながら資料を抱えて母屋へと消えていった。  必要な資料を蔵の中でハナビが選び、それをリョウスケが母屋へ運び込んでいく、という流れ作業だ。  選ぶといっても、最終的には蔵の中にある資料すべてに目を通すつもりなので、入口に近い棚から適当に搬出していっている。  今日のノルマ分は準備できただろう。  ようやく自由になった手で、ぶつけたところをさすりながら母屋へ移動した。  玄関で靴を脱ぐと、裸足で畳張りの居間を通り抜ける。  冷たくて気持ちのいい木の廊下の突き当りが、宿泊先としてハナビに提供された部屋だ。  ドアが開いており、中ではリョウスケが資料を積み重ねてくれていた。 「今日はこれで終わり?」 「ウィ」  携帯端末によってフランス語に変換されたリョウスケの声がつづける。 「お昼ごはんの時間になったら呼ぶから」 「メルシー」  リョウスケは、ハナビが読み終えた資料を手早く廊下に出すと、また蔵との往復作業をはじめた。  その背中を見送りながらドアを閉める。  空調の効いた快適な部屋はフローリングになっており、ベッドと机がひとつずつ設置されていた。  机は以前から置いてあったということだが、ベッドはハナビの滞在が決まってから、リョウスケの両親が運び入れてくれたものらしい。  日本風のフトンでも良かったが、日系フランス人の娘はベッドの方が落ち着くだろうと気を利かせてくれたようだ。 「よし」  ハナビは最初の一冊を机に置くと、椅子に座ってページをめくりはじめた。  床の上には、机と同じ高さになった資料が積まれている。  日本に滞在して五日目。  ハナビは毎日、今日と変わらぬ量の資料の山に目を通し、そのすべての内容を記憶していた。  ***  文章に対する絶対記憶能力。  いちど読んだ文章を記憶し、頭の中に保持しておける能力だ。  法律書を読めば専門家が口にした間違いを指摘できるし、コンピュータプログラムのサンプル集を読めば、あとから正確に再現することができる。  だが、パリの裁判所に立って人を弁護する能力は身につかないし、世界を変えるようなシステムだって構築できない。  あくまで文章を記憶するだけの能力でしかない。  それでも、ハナビの人生を惨めなものにするだけのインパクトは備えていた。  五歳になったばかりの娘が、家の中にある書籍の内容をすべて憶えていると知ったとき、両親はおびえた表情を浮かべた。自分たちの娘が、普通ではないことに耐えられなかったのだ。  小学校に入った時点で高校までの教科書はすべて読んでいたので、授業の内容は欠落だらけに感じたし、そんな子供に友達ができるわけがなかった。  成長するにつれて周囲との摩擦は減っていったが、それはハナビが距離を置くようになったためだ。  高校卒業後は近所のコンビニエンスストアで夜間のアルバイトをはじめた。  能力を活用すれば大金を稼ぐこともできるのだろうが、そのために行動する意思もエネルギーもない。  進むべき方向を見つけられないまま、夜に働いて朝に眠る生活を続けていると、すこしずつ、自分の中のなにかがすり減っていくような気がしてくる。  いつか、すべて削れて無くなってしまうのではないか。  そんなある日、その人物が現れた。  ***  アルバイトから帰ってくると、家の前に背の高い女性が立っていることに気づいた。  黒い肌に短く刈り込んだ髪の毛。  白いシャツ、チャコールグレーのロングスカートというシックな服装で、眼鏡をかけたその奥からは、強い意志を感じさせる瞳がハナビを見据えていた。 「ボンジュール、待ってたよ」 「どちらさまですか?」  すこし離れた位置から尋ねるハナビに、その女性はニカッと白い歯を見せて笑った。 「世界で一番、きみを必要としている者さ」  へスリング教授と名乗るその女性は、近所にある大学の名前が入った名刺を差し出した。 「人間心理研究室」 「そ。楽しくなさそうな名前でしょ」 「どういったご用です?」 「込み入った話になるけど、カフェでも入る?」 「結構です」 「じゃあ、公園のベンチはどう?」 「結構です」 「警戒心つよいね」 「ウィ」  家の前で立ち話をすることになった。 「要点から言うとだ、うちでバイトしない?」  すこし考える。  コンビニエンスストアの接客態度がよいと評価されたことはないので、大学の売店スタッフのスカウトではないだろう。 「なにを記憶するんですか?」 「話が早いね。いろんな人の日記を読んでほしい。それも、なるべく大量に」  へスリングが研究しているのは、人間の心を再現した人工知能らしい。  質問に回答してくれる人工知能ならば以前から実用化されているが、それはただ情報を集めて提示しているだけだ。  へスリングが目指しているのは、一緒に悩んでくれる人工知能とのことだった。 「たとえば、恋人のアランと喧嘩をしてしまった」 「はあ」 「画面からはこういう反応がある。あなたはアランとどうなりたい? そもそも喧嘩の原因はなに?」  へスリングは、ちょっと高い声をだした。相談者が女性の設定だから、女友達のようなイメージなのかもしれない。 「アランと仲直りしたいのね。だけど待って。それって本当にいい選択かな」 「え?」  楽しそうにへスリング教授がつづける。 「アランの服装がダサいと指摘したから喧嘩になったのよね。じゃあ、あなたとアランのファッションセンスが合わないってことじゃない。よりを戻したってまた喧嘩になるかもしれない。あと、人のファッションにケチをつけるのってどうかと思う。今回の喧嘩はあなたにだって原因があるってこと。ちょっとアランにも同情しちゃうかな」  出勤途中の通行人が、ひとり芝居を続けるヘスリングを見ながら通り過ぎていった。 「悩みが解決しそうには思えませんが」 「友達とダベってるときなんて、こんなもんじゃない?」 「友達がいないので知りません」 「それはサイコーだね」  お引き取り願おう。  そう決めたところで、ヘスリングが「だからきみが必要だ」と口にした。 「わたしが作りたいのは人の心を理解するシステム。大量の人生をインプットできて、人とうまくやれない未熟者のきみが適任なんだよ」  どうにも悪口を言われているような気がしてならない。そして、まだ詐欺である可能性を捨てていなかった。  業務内容もよくわからないし、やはりお引き取り願おう。 「お断りしま」 「ひとり暮らしできるぐらいの給料は出すからさ。親元を離れたいんじゃない?」 「ぐ」  そのとおりだった。  アルバイト生活を送るうえで、一番の気がかりは実家暮らしという点だ。  なるべく世の中と距離を置くように生きてきたが、経済的事情で自立しているとは言い難い。 「ま、まず、身元の確認をさせてください」 「ダッコー。大学まで一緒にいこうか。散歩にはいい朝だ」 「夜勤あけなんですけど」 「朝方の生活に戻すいい機会だね」  歩きはじめるヘスリングの背中を追いかけながら、「まだ決めたわけじゃありませんから」と言葉を放った。  ***  日記の主はナカジマ・カナエといった。日本の山間部に住む、百三十二年前に生まれた女性だ。  九歳から書きはじめられた日記は八十二歳で終わっている。  資料によると亡くなったのは八十七歳だから、人生のほとんどを文章に記していたことになる。  職業はコピーライター。  文章を書く仕事だから日記を書く習慣を維持できたのか、それとも日記を書く習慣があったから、文章を書く仕事を選んだのか。  人間心理研究室で働き始めて三ヶ月。  いろいろな人の日記に目を通してきたが、その中でも圧倒的に多い文量だった。 「いたっ!」 「なにやってんの?」  大学構内の売店でランチを買ってきた帰り、研究室のドアにおでこをぶつけているところをヘスリングに目撃された。 「頭の中で読み返すクセ、便利だろうけど危ないよ」 「ううっ」  ヘスリングがドアを開けてくれたので、おでこをさすりながら研究室に入る。  人間の心の動きを再現する人工知能開発に、日記だけを材料としては偏りがある。  そのため、インターネットや身体を使ったコミュニケーションを研究している学生たちも、ヘスリングの研究室に出入りしていた。  しかし、いまはだれもいない。 「で、だれの日記を読み返してたんだい? イスラマバードのお兄さん?」  ヘスリングがデスクに座り、買ってきたものを広げながら尋ねた。今日はパスタにしたらしい。バジルソースのいい香りがただよってくる。  デスクなど与えられていないハナビは壁際のソファに腰かける。買ってきたのは売店で一番安いサンドウィッチだ。 「それは二日前に読み終わりました。わたしは暑い国では生きていけないと思います」  ヘスリングのツテなのか、各国にある大学を通じて大量の日記がフランスに送られてきており、研究室の横の、余っている部屋を倉庫として使わせてもらっていた。  ハナビの仕事は、その倉庫にこもって日記を読み続けることだ。あまり人と接したくないハナビには悪くない職場環境だった。  フランス語以外の言語については、読むだけならば支障がない。  頭の中にさまざまな言語の辞書が入っているから、文字を文字として認識できれば読めるようになる。  ならば会話ができるかというと、文字と音が連動していないので、そうはいかなかった。ヒアリングも同様だ。  ハナビが持つ能力は、読むことに特化しているのだ。 「日本のナカジマ・カナエという人の日記です」 「ああ、あのいっぱいあるやつね」 「一ページだけなにも書かれていないんです。七十四年のうち、一日だけ」 「そういうこともあるんじゃない? 書き漏れをチェックしてるわけじゃないだろうし」 「サナに彼氏ができた。わたしがひとり暮らしだからって部屋を貸せという。ナニするつもりだ、ふざけんな。朝のトーストに塗ったピーナッツバターはよかった。今日から新しいアニメが始まる。楽しみ」  ヘスリングが変な表情を浮かべる。 「空白の前の日の内容です」 「ああ、カナエの日記ね。びっくりした」 「空白の翌日。大学のキャリアセンターにコピーライターになりたいと相談した。広告代理店などに就職するのが一般的らしい。ネットで調べると、専門の学校があって、先生の紹介で入社することもあるようだ。でも、いまから学校かわるなんてできない。人生間違えた!」  ヘスリングが、フォークでパスタをくるくると巻きながら口を開いた。 「コピーライターを目指してたの?」 「七十四年のうち、ここではじめて登場します」 「ふうん。空白の日に、自分の進路を決断するなにかがあったと。で、きみはそれが気になると」 「それは、まあ」  なぜこんなにも気になるのだろうか、と自問してみる。カナエの人生の、空白の一日にミステリーを感じるから?  自分がそんなに人に興味を持てる性格なら、もうすこし友達ができているはずだ。  カナエの日記はこのあと、夢に向かっての歩みと、その後の失敗や挫折が綴られていく。  なんとか広告代理店に就職できたものの、先輩に怒られ、取引先から契約を打ち切られ、それでも最高の作品を目指してあがき続けながら、定年を迎える。  結局、後世に残るようなヒット作を生み出せずに終わるが、ハナビにはその日々がとても魅力的なものに思えた。  それらは、あの空白のページからはじまったのだ。 「わたしも、そんな日が欲しいのかも」 「あっはっはっ!」  突然のヘスリングの笑い声にビクリとする。 「いいね。行ってきなよ、日本」 「はい?」 「いま、日記提供者の資料を読み返してたんだけどさ」 「ナカジマ・フミタカ。カナエの曾孫です」 「そう。百年前の日記を残しておくような家族だ。他にもなにか残ってるんじゃない?」 「で、でも。わたし外国なんて行ったことない」 「お金なら予算から出すし、きっとパキスタンより涼しいよ」  そういう問題ではないのだが、ヘスリングはすでに携帯端末でどこかに電話をかけていた。 「アロー。提供してもらった日記の持ち主に連絡とってほしいんだけど」  一週間後、ハナビは飛行機に乗って日本へ飛んでいた。  ***  ドアがノックされた。 「ハナビさん、お昼ごはんだよ」  リョウスケの声だ。  机の横に積まれた資料の山は半分ほどに減っていた。目を使いすぎたせいか、すこし頭痛がする。  これまでに目を通した資料は、カナエが勉強のために読んでいた書籍や、会社で使ったらしいプレゼン資料が、ほとんどだった。たまに趣味のマンガやアニメの本もある。  いまのところ、空白のページを埋めるようなものは発見できていない。  蔵に残っている資料は、最終日である明日には読み終わる計算だが、その中にカナエの人生を変えたなにかがあるだろうか。  ふわふわする頭で居間に行くと、背の低いテーブルの上にソーメンが乗っていた。  日本に来た初日にリョウスケが作ってくれた食べ物で、すばらしくおいしかったため、それ以後のお昼は、かならずソーメンにしてもらっている。細かく刻んだキュウリやタマゴが乗っていて目にも美しい。 「イタダキマス」  座布団の上にあぐらをかいて座り、フォークで麺を巻く。  ツユというソースにつけてから口に運ぶと、甘くてしょっぱい、深みのある味わいが口の中に広がった。フランスでも売っているだろうか。帰ったら探してみよう。 「明日で最後だけど、また素麺でいいの?」 「ウィ。ソーメン、セボン」  料理学校に通っているリョウスケは、フランス人が泊まりにくると聞いて気合いが入っていたらしい。  それなのに、簡単な料理で大満足されてしまったため、お昼のたびに物足りなそうな顔をしていた。なんだか申しわけない。  ナカジマ家は、トウキョウから電車で二時間ほど移動した山間部にある。  母屋と蔵のある敷地は高台に位置していて、母屋の二階に上がると河川敷や駅周辺の繁華街が見下ろせた。 「明日には終わりそう?」  ハナビは、自分の携帯端末の翻訳アプリを立ち上げた。 「読み終わりはしますが、知りたいことがわかるかは、わかりません」 「そっか。とーさんとかーさんも、わからないって言ってたし」  日中、リョウスケの両親は仕事に出ている。夏休み中の息子を、ハナビのアシスタントとして提供してくれたのだった。 「どうせゲームばかりやってるんだから」とのことだが、資料の運搬に、ハナビへの食事提供にと大活躍だ。  ついでに「ハナビさんに指一本でも触れたら家から叩き出す」と言われていた。おかげで安心して仕事に専念できている。 「ゴチソウサマ」  お皿を流しに持っていくために立ち上がろうとすると、視界がぐらりと揺れて、畳の上に尻もちをついてしまった。 「あれ?」  いつの間にか頭痛が強くなっていた。 「ハナビさん?」  心配したリョウスケが顔を覗き込んでくる。  異性に近づかれることに慣れていないので、すこし恥ずかしい。 「顔、赤いよ。もしかして熱ある?」 「大丈夫。寝不足なだけ」  自分を誤魔化すように言いながら立ち上がり、皿を手に取った。 「オレがやるから。ていうか、体温計もってくるから待ってて。どこだっけ」  体温計を探しにいくリョウスケを無視して、ハナビはお皿を流しに置き、ふらつきながら部屋へ戻った。 「読まなくちゃ」  椅子に座って、途中だった資料に視線を落とす。  文字を読もうとするが目の焦点が合わない。これでは記憶ができない。  ノックの音。 「ハナビさん。入るよ」  リョウスケがガンタイプの体温計を手に持って、部屋に入ってきた。  椅子に座っているハナビに近づくと、おでこに体温計を押し当てて、ピッとボタンを押した。 「うわ、高い。仕事は無理だよ。寝てなくちゃ」 「大丈夫」 「大丈夫じゃないって」 「でも」  ハナビは、机に乗っている資料をペラリとめくった。 「読まなくちゃ。カナエのことを、知らなくちゃ」  その熱意に驚いたのか、リョウスケがだまりこむ。  気まずい沈黙が続いたあと、「オレが読むよ」と口にした。 「え?」 「ハナビさんに比べたら時間はかかるけど、あとはオレが読む。だから、今日は休んで」 「……ウィ」  パジャマに着替えてからベッドに入ると、リョウスケがトレーに乗せて、なにかを持ってきてくれた。 「熱は下げないほうがいいかもしれないから、代わりにこれ」  ガラスの器には、プルプルと震える黄色いものが乗っている。 「プディン?」 「おやつに出そうと思ってたやつ。オレのプリンは家族に好評なんだ」  器ごと手にとり、小さいスプーンですくって口にいれる。  冷たくて、甘い。 「オイシイ、スゴク」 「よかった。ゆっくり休んで」  空になった器をもってリョウスケが出ていく。  頭の片隅では、なんとか残りの資料を読めないかと考えていたが、すぐに深い眠りに落ちていった。  ***  夢の中にカナエが出てきた。  写真で見せてもらったおばあちゃんの姿ではなく、空白のページ前後の若い学生の姿だ。  とりあえず、お礼を言っておく。 「曾孫さん夫婦と玄孫さんにお世話になっています」 「いえいえ」  お互いに日本風のおじきをする。何語で会話しているのかはよくわからない。  カナエは笑いながらこう言った。 「わたしの人生なんてたいしたことないって。あなたのほうがすごいじゃない」 「でも」  ハナビは、ぎゅっと手を握りしめた。 「わたしは、カナエが羨ましい」 「そう? わたし、もう死んじゃったからなにも手伝えないけど」  カナエが手を差し出してくる。  ハナビは戸惑いながら、その手を握った。 「せっかくだから、わたしの実家を楽しんで」  とつぜん、ドンッという音が響きわたり、ハナビは驚いて目を閉じた。  目を開けるとベッドの中だった。 「カナエ?」  身体を起こしてあたりを見回す。いつものナカジマ家の部屋だ。  どのくらい寝ていたのだろうか。窓の外はすっかり暗くなっている。  また、ドンッという音。 「なに?」  不安になってベッドから起き出し、パジャマ姿のまま、部屋の外に出た。  明かりがついた木の廊下を歩いて居間に向かう。まだすこしふらつくが熱は下がった気がする。  居間ではリョウスケが寝転がって携帯ゲームをしていた。  ハナビの姿に気づいて、あわてて立ち上がる。 「熱はどう?」 「ん。さがった」 「よかった。階段あがれる?」 「階段?」  よくわからないが、リョウスケのあとに続いて二階へあがる。  二階はリョウスケの部屋と、ナカジマさん夫婦の部屋になっていた。  夫妻の部屋に入ると、仕事から帰ってきていたリョウスケの両親が「あ。ハナビさん」「体調どうだい?」と出迎えてくれた。 「大丈夫です」  また、ドンッという音。 「よかった。じゃあ、ベランダにでましょうか」  誘われるままに、リョウスケの母親と一緒にベランダに出る。  繁華街のネオンの光と、河川敷に集まる人々の姿が見える。  そして夏の夜空を染め上げる大輪の花火。 「この音だったんだ」 「ハナビさんの名前の由来だと思うから、見せたかったんだ」  横に来たリョウスケが言う。  ナカジマ夫妻は、ベランダに出してきた椅子に座って鑑賞していた。 「本当は夏祭りにつれていきたかったんだけどね」 「お父さん、余計なこと言わないの」  花火は、いままさに最高潮を迎えたところらしく、連続で打ち上げられていた。  輝いては消えていくあざやかな光。身体の芯を震わせる炸裂音。夏の夜の蒸し暑さ。  そして、ハナビを気遣ってくれるカナエの子どもたち。  わたしは、この瞬間を憶えておきたい。 「あ」  自分の中で、なにかが変わったような感覚があった。 「カナエも、カナエの花火を見たのかな」  それがなにかはわからないけども、きっと同じような体験をしたのだろう。  ふと、リョウスケがこちらを見ていることに気づいた。 「クヮ?」 「あ、いや、なんでもない」  リョウスケが、なぜか焦ったように首をふる。 「リョウスケ」 「うん」 「明日は最後だから、仕事お休みにするから、どこか遊びに連れてって」 「う、うん!」  花火が終焉を迎える。  暗さを取り戻していく夜空を見上げながら、ハナビの心だけが、まだ輝き続けていた。  ***  お昼のソーメンを食べながら、ヘスリングへの報告を終えた。  箸の使い方は上手になったが、どうしてもツユが服に飛んでしまう。もっと練習が必要だろう。 「で、家族みんなで遊びにいったと」 「ウィ、楽しかった」 「かわいそうになあ、リョウスケくん」  なにがかわいそうなのかわからず、首をかしげる。 「じゃあ、空白のページは埋まらずじまいか」 「昨日、リョウスケからメールがきました」 「お?」 「資料の中から、コピーライターの主人公が活躍するアニメの本が出てきたそうです」  タイトルは『キャッチバトル☆マリー』  キャッチコピーで戦う変身ヒロインアニメで、マニアックな人気があったらしい。 「そういえば、新しいアニメが楽しみとか書いてたっけ」 「よほどハマったみたいで、思いつく限りのキャッチコピーを書いた紙の束が一緒に発見されました。たぶん、それを日記に挟んでおいたのが脱落して」 「空白のページになったと。なんだ、たいした事実でもなかったな」 「たいしたことだったんだと思いますよ」  食べ終わったソーメンの容器を持って立ち上がり、研究室の流しに持っていく。 「カナエにとってはね」  ヘスリングがにやりと笑った。 「日本に行かせた成果があったようだ」 「午後の仕事をはじめます」  そう言って研究室を出ると、倉庫に向かって廊下を歩いていく。  リョウスケからのメールには続きがあった。  カナエが書き連ねたキャッチコピーのうち、気に入ったものをひとつ教えてくれたのだ。  カナエがコピーライターになってから、企業の広告にも使われたらしい。  うちへかえろう あたらしい世界がまっている 「ほんとだね。メルシー、カナエ」  倉庫のドアを開ける。  たくさんの人生が、ハナビに読まれるのを待っていた。
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