善性のメフィスト

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「このベンチ、返しに行かなきゃなんねんだよ。どのみち」  刑に服する前に、先に返して来い、先方に迷惑だから、って、ダリヤの奴が言ってたんだ。憎たらしげに鼻に皺を寄せ、フェリスが言った。 「ダリヤ?」梧桐は尋ねた。看守の数が多いからか、顔を思い出せなかったのだ。 「マリーの腰巾着。右腕みたいな顔して、えばってる奴」梧桐の方をちらとうかがい、フェリスはさらに、 「マリーってのが、看守長」 と付け加えた。 「マリーっていうんですか、あのひと」 「女みてえな名前だろ」フェリスの口元から、白い八重歯がのぞいた。「コンプレックスらしいから、会っても呼んでやるなよ。まあ、オレはそう言うけど!」尻尾の先がくねる。  梧桐は血の池に視線をやりながら、「ずいぶん、マリ……看守長さんのこと、好きなんですね」と言った。 「あたぼうよ」フェリスはまた、笑う。先ほどより幾分、慎ましやかな笑い方だった。 「華やかな奴が好きなんだよな、オレ。言ったろ? あんたは地味なんだ。あと、若い」  見た感じ、高校生――いや、大学浪人してる奴っぽい。梧桐を指差し、くるくると指を回す。「若芽を喰うような真似はしねえよ。青臭くて、不味ぃから」 「……当たってますね」  梧桐は頷く。殆ど、その通りだった。 「信仰について、研究したくて。けど、フツーに、学力足んなかったです」 「黒髪のままの方が良かったよ。いかにも、邪教信者っぽくってさ」  フェリスがぼそり、と言う。梧桐は驚いた顔で、緑メッシュの入った白髪に手を滑らせた。 「髪色は関係ないでしょ――じゃなくって。知ってるんですか? 『イマダコズ教』?」  看守は目を瞬き、数秒だけ、何か考えるように黙っていた。まっすぐ梧桐に向けられていた視線が、横にふい、と逸れる。 「……まあ、な。オレ、いちおう看守だし。過去の経歴くらいは、ザックリなら、把握はしてんだよ」  頬を掻く。白い肌がわずかに赤い。 「やらかしちまってることこそ多いけどな。仕事はいちおう、ちゃんとやってんだ」 「へえ……」 「ひとの事情に踏みこむべきじゃなかったな。悪ぃ。――オレとあんたはあくまで、いち看守といち罪人にすぎねぇ」  明後日の方を向いたまま、フェリスが言う。――と。 「そうだぞ、フェリス」  第三の声が、後ろから会話に割り込んだ。
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