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手から伝わる独特の硬さと蠢き。指先から腕を伝って腰、背中、頭のてっぺんにかけてゾワゾワする寒気が駆け上り、全身に鳥肌が立ってる気がする。
でもそんなものは知らんぷりをして、目を瞑るユリウスをチラリと見る。
(……よし、ユリウスは見てないから少々の不格好さは良しとしよう。そして側近のリュウもいつのまにか背を向けているから……うん、良しとしよう)
シェリルは片手にカブトムシを掴み、もう片方の手にスカートの襞を握って木から50mほど先まで全力でダッシュ。「さぁ、もう来ちゃダメよ……むしろもう来ないで」とカブトムシに声をかけて草原に下ろす。
手に残る感触に再びゾワゾワとした寒気が背筋を駆け上る中、それをごまかすように勢いよく手を掃って再びダッシュで木の下へ戻る。
そして額にジワリと滲んだ冷汗だか脂汗だかわからないものをフゥッと拭ってユリウスに声を掛けた。
「もう目を開けていいわ」
「……ほ、本当?」
「ええ」
ユリウスはまず薄目を開け、次に真ん丸なブルーの瞳を大きく覗かせて辺りを見回す。
「あ……カブトムシがいない」
「向こうにやったから大丈夫よ」
「シェリーが?」
「ええ」
「そっか、ありがとう。さすがシェリー。シェリーは聡明なだけではなくて、強くてかっこいいよね。そういう君が好きだよ」
「ほ、本当? ありがとう」
「うん。シェリーにはずっとそばにいてほしいな」
かわいらしい笑顔を向けるユリウスを見て、シェリルは表向き「まぁ」と感嘆の声を上げ、内実は今にも噴出しそうな鳥肌と闘う。
「もちろんよ」
顔は辛うじて淑女の笑みを保ったものの、未だ残るゾワゾワ感に表情が歪みそうだ。
(よ、よーし、かっこいいとか好きとか言ってもらえたわ。これで少しはさっき失った信頼を取り戻せたかしら。この調子でさらに挽回するのよ!)
続けて淑女教育で習ったことを実践する。
「そうだ、今日もクッキーを焼いてきたの」
淑女たるもの、相手の好みを把握し心から尽くすべし。
クッキーの包みを広げると、ユリウスはそれにチラリと目を向けてニコッと笑った。
「いつもありがとう。嬉しいな」
ユリウスと初めて会った10年前、このマーマレードをサンドしたクッキーを美味しそうに食べてくれたことを覚えている。
10年前は母・セイラが、今はシェリルが焼いたものだ。
「今日も美味しそうだね」
「ありがとう。今度はお母様にマドレーヌを教えてもらおうかな。次の時に焼いて持ってくるわね」
「……うん、楽しみにしてる」
「さぁ、クッキーをどうぞ」
そう勧めると、ユリウスはクッキーを一つ手に取った。でもそれをなかなか食べないのが彼の特徴であり優しさだ。
「食べないの?」
シェリルは答えを知っててフフッと笑って問う。
「……嬉しくて、食べるのがもったいないんだよ。だってシェリーの心が詰まってるからね。それにこのクッキー、見ているだけで幸せな気分になるんだ」
ユリウスはいつもそう言って、食べずにクッキーを眺めてニッコリ笑みを向けるのだ。
こうしてユリウスはクッキーを眺め、シェリルは食べながらとりとめもない話をして一緒に過ごす穏やかなひと時。
ずっとこうしていたいくらい。
そう思っていたのに――
「あれ……?」
不意に、チチチ、とキュイの鳴き声のようなものが聞こえた気がしてすぐ、ドクンと体中が大きく脈打つ感覚に視界が揺れる。それと同時に、シェリルは焼けつくような胸の痛みに襲われて小さく蹲る。
朧気ながら、ユリウスの手からクッキーが地面にポトリと落ちる様が目に映った。
「シェリー?」
「ユリ……ウ……ス――……」
「シェリー!? シェリー!?」
ユリウスが叫ぶように呼ぶ声が聞こえるのに声が出せず、視界は砂嵐に見舞われているかのように見通せなくなっていく。
そしてその声も次第に遠ざかっていった。
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