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綾乃は翌朝退院ということが夕方の往診で医師から告げられた。
静かな病室で過ごすのも今晩で最後だ。
綾乃は配膳された夕食を済ませ、洗顔と歯磨きをしようと部屋に設置されている洗面台へと向かった。
少し足元がふらつくが、看護師からはゆっくりであれば歩いて構わないと言われていたし、ベッドから洗面台までは数メートルしかないのでそこまで負担にはならない。
綾乃は歯磨きをしながら、洗面台の鏡の中に存在する自分を見つめた。
髪を結っているわけではないので、長い髪は乱れ放題だ。
目の周りの血色もすこぶる悪い。
「酷い顔…元からだけどさ…。」
綾乃はフンと小さく笑い、口をゆすぐ為に白いプラスチックのコップを手に取り、水を注ぎ入れた。
視線は当然そのコップへと注がれる。
溢れ出た水を確認した綾乃は水を止めて、コップを手にした。
「え…?」
綾乃は自分の目を疑った。
小説やアニメなどで、自分の目を疑うという表現があるが、綾乃はその意味が理解できないでいた。
だが、それを理解する瞬間が突然綾乃を襲った。
綾乃の背後に広がる薄暗い病室を映し出しているはずの鏡に、明らかに異質な者が映っていた。
異質な物ではなく、者だ。
それは明らかに「人」だった。
正確に表現するならば綾乃の身長を遥かに上回る「人影」である。
普通であれば病室の中、一人で洗面台の前に立ち、その鏡に映る自分の背後に人影が見えたならば正気を保つことは難しいだろう。
綾乃はそんな状況の中で、普通にコップに入った水を口に含み、口をゆすいで吐き出した。
少なくとも恐怖を感じている表情ではない。
そしてまた鏡を見た。
鏡に映る自分の背後に存在する人影を見た。
「ねぇ…」
綾乃は小首をかしげ、微笑んだ。
その表情から読み取れるのは明らかに恐怖ではない。
その微笑みはとても美しかった。
含みを持たせた美しさではなく、純粋な微笑みだった。
「まだ顔見せてくれないの?」
綾乃は少し拗ねたように口を尖らせて身を軽くよじった。
「顔見せてよ、天くん。」
綾乃は寝巻きのボタンを外して、するりと肩を露出したかと思うと、流れるように上半身裸になった。
そして実にスムーズに下半身も裸になった。
訓練でもしてきたかのような動きだ。
幼い時分で繰り返された動きはいつまでも体にすり込まれて離れない。
綾乃がためらうことなく全裸になるのもそれ故のことだろう。
「天くん、私、ちゃんと言われた通り裸になったよ?だから顔を見せてよ…。前みたいに…。」
綾乃の息づかいが荒く、そして深くなっていく。
綾乃の全身の血管を打撃するような音を立てて血が巡る。
血色が悪かった目の周りもいつの間にか紅潮している。
綾乃は立ったまま人影に向かって、臀部を突き出し、秘部を自分の両手で広げた。
「天くん…見て…」
綾乃は過呼吸のような息づかいの中で、絞り上げるような声を出した。
その時、ふわりとした、羽衣をまとうような感覚が綾乃を包んだ。
柔らかく、少し冷たく、しかしどこか温もりを感じるような、まるで冬の気温をまとった上質な毛布のような感覚だった。
「あ…っ…たかい…よ…」
綾乃はあまりの心地良さに目を閉じ、体をくねらせて、だらしなく口を半開きにして情けない喘ぎ声を肺から押し上げるようにしてひねり出した。
全身鳥肌を立てた綾乃はもはや恥も外聞もない様子で快感に狂う自分を一目見ようと、震えながら全力で目を開いた。
「て、天くん…。」
鏡には人影に後ろから抱き締められて、一流娼婦のような表情で体をよじる自分が映っていた。
「…シロ…」
「え、えぇ?な、何?」
綾乃の耳元でその人影が呟いた。
綾乃の問いかけにその人影は反応しなかった。
「あ…待って、待ってよ…天くん…。あなたの顔…思い出したいの…」
綾乃はその人影の抱擁が消えていく感覚を察知して懇願した。
黒く塗りつぶされた「天くん」の顔と、人影でしかその全体像を綾乃に見せないというもったいぶられた快楽にも似たもどかしさが綾乃を包んだ。
綾乃が察知したものはやがて現実となってしまった。
抱擁が消えていく。
その人影も消えていく。
支えていたものが無くなったように綾乃はつんのめり、転倒しそうになったが寸前で踏みとどまった。
綾乃は裸のまま体勢を戻し、再び鏡の前で姿勢を正した。
そしてすっかり血色が良くなった自分の顔を軽く左右に向けて、何かを確かめた。
「私だけの…恐らく私だけの…」
綾乃は小ぶりな乳房を隠すように自分の両肩を抱いた。
職場で騒ぎを起こした自分への嫌悪感や、どんな顔をして、どんな態度で出勤すれば良いのかという不安、そして天野へどういう態度を取れば良いのかというむず痒い感覚が波のように綾乃の心に押し寄せていた。
しかし、こうして血色の良くなった自分の顔を見て綾乃は確信していた。
自分を守ってくれる絶対的なものが存在すると、謎の人影が残したわずかな温もりがそう確信させたのだ。
天野の顔が綾乃の心に浮かぶ。
しかしそれは矮小であり、心の面積のほんの一部しか占めていない。
「私をいじめた、天くんの「何か」はきっと私だけの…」
綾乃は鏡に背を向けた。
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