第一章

6/10
前へ
/18ページ
次へ
綾乃は仕事に復帰した。 スムーズに復帰し、何も無かったかと思うくらい周辺は静かだった。 何も無かったというより、何かがあったからこその静けさなのだろうか。 綾乃自身も体にまとわりつく不自然な静けさに小さな息苦しさを覚え、自然に眉が絞られていく。 天野もそこにいた。 上層部がどう判断したのかは不明だが、天野はいつも通りに淡々と仕事をこなしていた。 産業医は以前覚醒していないという中で、疑いをかけられた天野が仕事に戻るという事態は何かがあると疑わざるをえない。 天野と綾乃のやり取りも実に自然に見えた。 仕事上のことであるから当たり前のことかもしれないが、それすら周囲の人間からしたら不気味に見えるのかもしれない。 仕事の中での緊張感とは違うものの中で、自然に見えた天野の頭の中はフル回転していた。 『入江田に聞こうと思ったのに…言葉が出てこない。そして何か…どこか…?入江田の雰囲気が変わった?…のか?産業医は?生きてるのか?んで何だ?この雰囲気は。何があった?』 天野は綾乃を横目で見た。 天野の頭の中と綾乃の頭の中は乱れてはいたが、綾乃の場合は違う乱れ方だった。 何かを悟る寸前だったのだ。 あともう一歩というところだ。 幼少期からよく記憶が飛んでいたり、理由もわからずに、ある一定期間自分が自分ではない気がしたりしていた。 その不明確な部分が自分の中で繋がりそうになっていた。 『悟る…悟る…何かを知る…ただそれだけなのに…知らないことを知る…知ろうとする…当たり前のことなのになんでこんなに胸が苦しいの?どうして?何があったの?』 その考えと静寂を切り裂くように、一人の作業者が仕事中の綾乃に声をかけてきた。 その男は綾乃がパニックになった時に、天野がヘルプを頼んだ男だった。 「入江田ちゃん、お疲れ。大丈夫?」 「あ、はい…ありがとう…ございます。」 身長が低く、若干太り気味のその男は、綾乃とそこまで親交はないが、話したことはあるというくらいの関係だ。 天野と同じ大学で同い年ということは知っているが、その他はあまりよく知らない。 丸い全体像とおっとりゆっくりな話し方のせいか非常に優しい印象だ。 「とりあえず、ヘルプとかあったら言ってよ。昨日退院したばっかでしょ?」 「そうですけど、元気ですよ?散々迷惑かけたからしっかり取り返さないと。」 綾乃は忙しく、あのボタンを押し、このレバーを入れてと、左右の手を動かしながら返答した。 「だけど無理はいけないよ?僕を始め、みんな入江田ちゃんを心配しているし。何も遠慮は要らないよ。」 その男は徐々に綾乃との距離を詰めてくる。 少しだけ不快感が綾乃に宿り始めた。 心配も度が過ぎると、うっとおしく感じるのは普通のことだと綾乃は自分の正当性を自分に訴えた。 それが意味あることかは置いておいて今そのうっとおしさを紛らわすのはその方法しか無かったのだ。 「大丈夫です。今のところはむしろ調子がいいので。絶好調っていうくらい…ハハ…。」 綾乃は最初の強めな口調をごまかすように愛想笑いをその男に贈り、距離を取った。 男は周囲を見回した。 綾乃はどうしても異性からそういう目で見られてしまう。 綾乃は大人しく、声が小さく、よほどのことがないと声を上げることもしない、見た目もなんとなく弱々しく、小柄である。 邪心を持って近付いてくる人間がいてもおかしくはない。 綾乃はその邪心に気が付かなかった。 気が付いていれば綾乃は何か対策を取れていたかもしれない。 しかしそれは遅かった。 それは綾乃自身の為の対策ではなかった。 その男の為の対策だった。 その男の右手が綾乃のうなじに触れようかというその瞬間、悲劇は起こった。 急にその男の襟首が限界まで伸びると、それに伴って体が宙に浮いた。 「うわっうわっうわっ…え?」 慌てふためく男の声に綾乃は気が付いた。 「え?ちょ…は?何?」 綾乃は大きな目を更に見開いてその状況に驚愕した。 綾乃が慌てて取った距離を戻そうとした時、その男は何かに顔を殴打されたかのように吹き飛んだ。 惨めに歪んだ顔を起点にして綾乃と反対側に吹き飛んだ。 男は尻もちをつき、運よく頭をぶつけずに倒れ込んだ。 そこまで一瞬の出来事である。 綾乃は両手を口に当てて、息を止めた。 綾乃の足は内股になり、がくがくと膝が笑い始めている。 倒れた男に視線を集中していた綾乃の視界の端にあの人影が見えた。 綾乃は驚いて止めていた息を吐き出し、その人影を完全に視界に入れた。 大きさ、姿と形は以前に見たそれだったが、今度は影では無かった。 それは一糸まとわぬ男の後ろ姿だった。 はっきりとした人だった。 ただ普通の状態ではなかった。 青白い光を放ち、怒りをほんのわずかに含んだ無表情の横顔を綾乃に見せていた。 「て、天くん…?だ、よね?」 実際に綾乃は思い出していなかった。 己の願望を込めてそう言った。 だがその青白い何者かはひねり出すようなかさついた声で、小さく答えた。 「テン…フクオミ…テン…」 綾乃はそれを聞いて記憶を一気に巻き戻した。 記憶から消えていた「天くん」を呼び覚まそうと凄いスピードで巻き戻していく。 しかし、その作業は中断させられた。 殴り飛ばされた男がゆっくりとその上体を起こしているのを綾乃は見てしまったのだ。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加