第一章

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「あぁ、ホラね?そうだろ?そうだと思ったんだよ。入江田ちゃん。僕は知ってたよ?入江田ちゃんはそういう…」 男は口から血をだらだらと流しながら顔面を殴り飛ばされたとは思えないほど饒舌に話しているところで、「天くん」が追撃を加えた。 一瞬で距離を詰めてサッカーボールを蹴るようにその男の顔面に足の甲をめり込ませたのだ。 「キャ…」 綾乃は声を出そうにも上手く出せなかった。 まるで呼吸が止まるかのような衝撃が綾乃の全身を駆け巡る。 散々ないじめをされてきた綾乃だが直接的で、直情的なわかりやすい暴力をまるで他人事のように見るのは初めてのことだったからだ。 何か違う世界のようにも感じるこの状態は、綾乃が今置かれている立場や居心地の悪さを加速することには間違いない。 綾乃がそう考えていると、その居心地の悪さを加速させる異変の主人公が慌てた様子で綾乃の元へと駆けつけてきた。 「入江田!!なんの騒ぎだ!!」 天野の声だった。 まるでチョコレートファウンテンのように次から次へと溢れ出る血液でそこら中を赤黒く染め上げる男を見て天野は凍りついた。 「風間!!何事だ!!お…い…?」 天野の勢いが弱まっていく。 「天くん」に殴り飛ばされ、顔面をサッカーボールのように蹴り飛ばされ、血だらけで倒れている男、風間と、そして綾乃に視線を向けたその端に映る青白く光る長身の男、全てが自分が見て聞いて学んだことと完全に裏返しの事態に頭の整理が追い付かないのだろう。 風間はまたゆっくりと顔だけ起こした。 血だらけで歪んだ顔を起こし、天野の顔を見た。 「か、風間!!おい!!しっかりしろ!!」 天野は風間の元へ駆けつけようするが、風間はばっと右手を天野へ掲げて、来るなと言わんばかりに首を左右に一往復させた。 「天野、ありがとう。大丈夫だ。こんな程度の傷、なんてことはない。」 口から血をだらだらと流しながら、呂律が回らない状態で風間は話した。 「入江田ちゃんには近づくな。最悪の媒体だよ、入江田ちゃんは。だから僕が止めなきゃなんない。」 「媒体?」 綾乃はその言葉に反応した。 意味がまったくわからないまでもない、どこか不透明だが部分的に限りなく透明に近いという状況に近い。 だがその実状や全体像はわからないといった、薄っすらと腑に落ちないというもどかしい感情を表した。 「入江田ちゃん…君は必ず止めてやる。天くんだっけ?君もだ。必ずいるべき場所に帰してやる。そうだと思ったんだよ、入江田ちゃん…。」 風間は上体を更に起こすと、歯を食いしばった。 すると風間の足元が青白く光ったかと思うと、細かいキューブ状になって分解し始めた。 「天くん」が追撃を加えようと、風間へ駆け寄る。 風間はその様を綾乃越しに見ながら微笑んだ。 「い、入江田ちゃん…僕にはわかるんだ。僕も…そうだから…そうだったから…だから…」 「天くん」の追撃が迫る。 「天くん!!駄目っ!!天くん!!」 綾乃の鋭い声が響いた。 普段大人しく、声が小さい綾乃が発した強烈な声が「天くん」に突き刺さった。 「天くん」はまるで車の急制動のように動きが止まった。 ぎりっと空気をつんざく音がした。 「天くん」は殴りかかろうとした姿勢のまま無表情でその場でぴたりと止まっている。 「ハハハ…入江田ちゃん、また来るよ…。それまでよく考えておくんだね。福臣天のこと、天野啓二のこと、そして自分のことをね。そう、何より自分だよ。」 風間はぐちゃぐちゃになった顔に、漫画のようにデフォルメされた笑顔を空間ごと切り取ってそのまま貼り付けたような無機質な表情で綾乃に言った。 「じ、じゃあ…な…天野…。」 風間はそう言い残し、全身を青白い小さなキューブ状に変化させて、やがて木枯らしにさらわれる枯れ葉のようにふわりと軽やかに、しかし重厚な雰囲気の中で飛んで消えた。 「風間!おい!」 天野が風間に駆け寄るが、右手が空を切った。 天野は力なく駆け足から歩きになり、やがて止まった。 天野は現実を受け止めることはできないというマイナス面での確固たる強さを目に秘めていた。 その様子が綾乃の目には随分と非現実的に映った。 天野そのものが非現実的に見えてしまうほどだ。 「天野さん、私…」 「どういうことだ!!お前は!お前はどこまで俺を追い詰める気だ!!これを!この事態をどう説明するんだ!!俺はどこになんと言えばいいんだ!!」 「待って…待ってよ…天野さん…」 「またラインを止めて!俺がその責任を問われる!!風間は消えて!!その説明を俺がしなきゃならない!!」 「天野さん…」 天野の不満は止まらなかった。 「入江田!お前が全部説明しろよ!!風間が血だらけで倒れて!?更にそれで消えちまった!!その理由を!!ぐああ!?」 天野が突然首を後ろに倒した。 「天くん」が前髪を掴んで、首を後ろに曲げたのだ。 「クソ!ぐぁあ!入江田っ!!」 天野はわけがわからずに大声を上げた。 「天くん!駄目!離して!天野さんは…天野さんは悪くない!!」 『そうだ、こんなことをしている場合じゃない!』 綾乃は天野に対して、会社に対して、全てへの言い訳を考えた。 その時だけはなぜか恐ろしく冷静だった。
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