第一章

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綾乃は会社の上役に呼ばれ事の顛末を話すも当然信じてはくれなかった。 自分にいじめを加えていた死んだはずの幼なじみが突如青白く光り輝きながら出現し、風間に暴行を加え、天野の胸ぐらを掴み上げ、風間は意味深な言葉を残し、枯れ葉のように吹いて消えた、これを高学歴の上役がどうやって信じ、今まで学んできたハイレベルな学問でどうやって消化し理解しえようか。 風間は不思議なことにあれほど床を赤黒く染めていた血液を少しも残さず消えてしまった。 その為会社側としてもできることは皆無である為、行方不明として警察機関に任せることとした。 騒ぎを起こす綾乃に関しては懲戒解雇とせざるをえないと判断した。 上役は天野にそれでよいか意向を聞いてきたが天野はそれを良しとしたのである。 天野はそれを否とする理由が無い。 様々な角度から自分を惑わし、様々な角度から自分の仕事を中断させ、予期せぬ時に自分のキャリアを汚してくる綾乃を引き留める理由も義理も無い。 「無いはずなのに…」 天野は小さな居酒屋のカウンターで一人、小さなコップに入ったビールを飲み干して呟いた。 下はクリーム色の作業着のズボン、上は黒い長袖Tシャツと仕事上がりのラフな感じだ。 平日の夜九時、一通り飲み終えた連中が帰宅し、その店の客は天野一人だ。 『俺は入江田に振り回されっぱなしだった。腐れ縁だと言ってもいい。それから解放されたことはいいことだ。喜ばしいことだ。でも何なんだ?微妙に見え隠れするこのざわついた感覚は。入江田って俺にとっては邪魔でしかなかったはずだ。邪魔どころか危険でしかなかったはずだ。それが消えようしている今、俺のこのざわついた感覚は何を表してるんだ?んで…誰なんだよ天くんて…。』 「すいません、瓶ビールもう一本下さい。」 「あいよ!」 天野は最後にもう一本ビールを飲んで帰ろうと思った。 明日から何も気にせず仕事に集中できるのは素直に喜ばしいことであり、今日慣れない居酒屋に一人で飲みにやって来たのはその祝杯の意味もある。 だが実際には胸がざわついて仕方がない。 「はいよ!瓶ビールでぇす!」 「あ、どうも…」 天野は冷えた瓶ビールを傾けてコップに注いだ。 店内の照明がビールが注がれた安物のコップを斜め上から照らしてその反射光が小さく天野の目を刺激する。 『産業医はまだ目を覚まさない…。もしかしたらもう駄目かもしれない。そんな話すらある。そして…風間…風間は…?何を言ってどこに消えた?』 天野は口をへの字に結び、ビールが入ったコップを手に取った。 『まぁいい。まずは今、色んなもんから解放されたんだ。風間が、気になるところだが…怪我も酷かったし。ん、いや、うん、一旦終わりにしよう。リセットだリセット。』 天野は右手に持ったコップの底を自分の額の高さまで上げて、目を閉じた。 『まずは乾杯。これくらいはさせてくれ。なぁ、風間よ。』 店主は片付けをしながら天野を横目で見て、フンと軽く微笑んだ。 自分より遥かに若い客が薄っすらと、わかるかわからないかというくらい小さく笑みを浮かべ、無言で盃を上げているその姿は店主という立場からすれば「良いことがあったんだ」と微笑ましい光景に見えるだろう。 しかしそれは180度違う、何かを説き伏せるかのような、説き伏せなければ自分を保てないかのような、それを自分でコントロールしなけらばならない苦しみと未来に絶望しながらも今だけはこの中の美酒に酔っていさせてほしいという死刑を目前に控えた死刑囚のような感情の元に掲げられた盃だったのだ。 天野は目を開き、ビールを飲み干した。 最後の一滴に喉を鳴らすと、天野はポケットから使い古された長財布を取り出し立ち上がった。 「お会計お願いできますか?」 「あいよ!はい、コレね!」 店主は金額が書かれた小さな紙を天野に手渡した。 天野はその紙を一瞥して、小銭を混じえて金額ぴったりを店主に渡した。 「あの…」 天野は小さな声で、天野から渡された金を持ってレジに打ち込んでいる店主に声をかけた。 「はい?どうしました?」 「金額違うみたいですけど…ビール三本飲んだはずだけど…その…会計間違いとか…?確認してもらっていいですか?」 「あぁ!いや、別に。お客さんさ、何か良いことあったみたいだから一杯ごちそうしたの!さっきの瓶ビール、ウチのおごり!ね!?」 「い、いや、べ、別に…悪いですよ…。払います払います。」 天野は再び財布を開こうとしたが、店主がレジ裏から手を伸ばしてそれを拒んだ。 「いいですってお客さん!ね!?奢らして下さいって!」 「いや、悪いですし…」 「いいですいいです!ね!?あぁそれじゃお客さん!そんな悪いと思うならまた顔出して下さいよ!また一杯飲み来て下さい!ね?それでいい?」 「あ、あぁ、まぁ。わかり…ました。んじゃごちそう様です。」 「よし、じゃあまた来て下さいよ?ありがとうございました!!」 天野は少しあきれたように笑い、店を出た。 外は涼しい。 秋の訪れを肌で感じる。 「見る目無いな…ここのおやっさん。」 少し早足で歩くと、天野は少し邪念というか、胸のざわつきが少し和らいだような気がした。 だがその胸のざわつきの正体が気になり、自分をがんじがらめにしているような感覚になっていた。 ほろ酔いでやや気持ちが大きくなっていたのと、元気な店主の声に後押しされたのか、天野は少しいたずらな笑みを浮かべて立ち止まった。 「入江田…会ってみるか。」 天野は自分の心への探究心を止めることはできなかった。
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