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秋の夕暮れが紅に空を染める魔の刻、万物生きとし生けるものが眠りという誘惑が平等に襲い来る。
紅と漆黒が同居するその時間、天野は職場から車で約20分ほどの場所にある綾乃が住んでいるアパートにたどり着いた。
仕事帰りなのでいつもの帰宅するスタイルである、下は作業着、上は少し派手目な長袖Tシャツだ。
小さく、古ぼけたアパートだ。
かつてその昔はおしゃれで、綺麗なアパートであったことが見え隠れするモダンな壁模様だ。
駅から近く、近くにドラッグストアを有した複合型の大型小売店もあり、生活に必要なものはほぼそこで手に入る。
駐車場が無いのが少し残念なポイントだが、電車通勤の綾乃には特に問題はなかった。
天野は近くのコインパーキングに車を停めて来たのだ。
「昨日、随分と元気そうだったな、あいつ。」
天野はそれが気に食わなかった。
もう少し沈んでいてほしかったというのが本音だ。
「何人傷つけてきたんだ。俺を含めて。…まぁいい…か…。」
天野は自分の手に持った小さな紙袋を見た。
「あいつ甘いコーヒー、好きだからな。よく飲むよ、あんなベタベタの甘いコーヒーなんか。」
天野はアパートの外階段を上がった。
鉄製の階段に簡易的に薄くコンクリートを流しただけで、よく揺れ、嫌がらせのように音がよく響く。
二階の奥から二番目の部屋の扉の前に立った。
天野は呼び鈴を押した。
ピーンという間の抜けた電子音が扉を介した先の空間に響いたのが天野の耳に滑り込む。
「はぁい。」
電子音に負けない間の抜けた綾乃の返事が聞こえた。
天野はインターホン越しに無愛想に声をかけた。
「俺だ。開けろ。早く。」
「あ、はぁい、すいません。」
淡白な返事がしたと同時くらいに扉が開く。
綾乃が懲戒解雇になってからまだ一週間経過していない。
天野はメンタル的にも体力的にも仕事に対して無理がかからないように週末を狙ってやって来た。
それほど天野は綾乃が原因で様々なものを擦り減らしていたのだ。
「お前、なんてカッコ…なん…」
綾乃は全くもって人を、ましてや元同僚を出迎える装いではなかった。
体の線が出るぴったりとした白い半袖のTシャツに下はだぶついた灰色のスウェット、せっかく軽やかで美しい艶々の長く、黒い髪はまったくブラッシングしていないくらいボサボサだ。
「天野さん、ありがとう。来てくれて。」
下着を着けていないのか、胸の突起が二つ、Tシャツ越しに恥ずかしげもなく天野に顔を見せている。
Tシャツの生地も薄くなってのものか、元々そういう生地なのか天野は知る由もないが、乳輪の黒ずみすら見て取れてしまう。
それなのに綾乃は天野と同じくらい淡白で、無愛想で、殻に閉じこもってはいるが小さく、わずかに感じる怒りにも似た静かな激情も感じる語気だ。
それを察知した天野の気持ちは、ここへ来たことを瞬時に後悔した。
産業医と風間、そして自分にも危害が及ぶところだった相手だ。
「入って下さい、寒い寒い。」
後悔という後ろ向きな感情に、数秒全ての動作を停止していた天野に対して綾乃は言い、細い自分の両肩を抱いた。
「あ、あぁ、悪いな、お邪魔するよ。これ土産だ。甘いコーヒー好きだろ?」
「あ、ありがとうございます。ベトナムコーヒーのセットだぁ、嬉しいな。ささ、入ってドア閉めて閉めて。」
「あ、おぉ。悪い。」
あまり無意味に謝ることをしない天野は、この時ばかりは違った。
へりくだる必要はまったく無いのだが、不気味さと見え隠れする小さな激情が天野に大きな不安を与えていたのだ。
天野に見える視界はまるで魔宮だった。
天野から見たこの時の綾乃は奥ゆかしく魔王の隣で氷点下の微笑みを携えた魔王の妻などではない。
『ま、魔王そのものだ…。』
天野は背を向けた綾乃の背中を見ながら小さな玄関に足を踏み入れて、ドアを閉めた。
綾乃の背中が横に逃げた時、部屋の様子が天野の目に飛び込んできた。
『部屋は片付いているな。一応生活はできている。一応表情も感情もありそうだな。掃除もできているっぽいし、入江田からも変な臭いもしない。風呂も入っているっぽいな。』
天野は素早く状況を飲み込んだ。
玄関を入ると、すぐに簡素なキッチンがあり、その向かいにユニットバスルームがある。
その奥に八畳以上はありそうなフローリングのリビングが一部屋だけある。
「座って下さい。今コーヒーでも淹れます。」
「いや、飲み物はいらないよ。気にすんな。じゃあ座らせてもらうよ。」
「はい、クッションどうぞ。」
「いいよ、俺は会社帰りだ。汚れちまう。」
「そうですか?気にしなくてもいいのに。」
天野は何も言わずにフローリングにそのまま座った。
「なぁ入江田、少し教えてもらいたい。答えたくなきゃ答えなくてもいい。」
「何でしょうか?」
天野はあぐらをかいた右の太ももに右手をパチンと軽く叩き、深呼吸をしてから切り出した。
「て、天くんて誰だ?」
空気が歪む。
そして綾乃の顔も軽く歪む。
申し合わせたように天野の顔も歪んでいく。
「知りたい?」
綾乃もその場に座った。
天野とは向かい合わせになっていて、その距離は会社で顔を合わせていた時よりも若干近い。
少し心をかき乱された天野は綾乃の顔を下から見上げるように睨んだ。
「答えてくれるならな。無理にとは言わんよ。」
天野は作り物の余裕な表情で綾乃に言った。
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