第二章

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第二章

綾乃は、血まみれの顔で仰向けに倒れた天野を見下ろした。 「天くんがなんで天野さんを嫌ったかわからない。どうしてなんだろう。」 天野は急に咳き込み、血を吐いた。 それを見てハッとした綾乃はすぐによそ行きの服装に着替え始めた。 「とりあえずここにはいられない。」 綾乃の行動は素早かった。 すぐに下着を着けて、簡素な白いワイシャツ、スラックスのパンツを履いた。 咳き込み終え、ぐったりとして動かなくなった天野を横目で少しだけ見るとすぐにユニットバスの洗面台で、長く、艷やかな髪をブラシで梳かし、簡単な化粧も施した。 その時間はわずか十分程度だ。 ちょこまかと小さな体で狭い部屋を動き回りながら逃走の準備をした。 小さなキャリーバックにそこら中のものを詰め込み終えると、ふぅとまるで一服をしているかのように息を吐いた。 「天野さん、ごめんなさい。私はどう生きていけばいいかわかりません。また気がつけば一人。いつもこうだった。気がつけば一人。いつもいつも。天野さんなら…なんて思ったんですけど、迷惑ばかりかけちゃってたし、実際迷惑ですよね?」 綾乃は少しだけ頬を赤らめて、顔と首の筋肉が全て緩んだようにがっくりと首を下げて、赤らめた頬を重力になびかせた。 視界の端に動かなくなった天野が存在する。 「どうせ一人、一人なんです。だから私は、天くんと生きる。不思議よね。私をいじめてたのよ?酷いことばかりして。あぁ、ごめんなさい、天くん、私、怒ってなんかないよ?」 また、ぼぅっと青白い人型が綾乃の背後に現れてそのたくましい腕を後ろから綾乃の首に巻きつけ、その手を乳房の上に置いた。 綾乃はその感触に体と顔を一瞬緊張させたが、すぐにその緊張は緩んだ。 「たくさんいじめて、たくさんこの体を見られてるから…ごめんなさい、変なこと言うようだけど、うん…なんか変な絆を感じちゃってるのよ私。変よね。わかってる。」 綾乃は顔を上げて、自分の部屋のドアを見た。 「行こう。私には天くんがいる。どうやってでも生きていける。」 綾乃は自分が異常な判断をしていると理解はしていた。 そして「天くん」との関係性も普通ではないものだと理解していた。 抑圧され続け、そして一人になったという自分の生きてきた環境と、人を傷つけ、殺してしまうかもしれない謎の守護神が自分にはいるという今この環境を比べるのは、あまりにも馬鹿げている。 法を犯していることも理解している。 だが天野という人間を葬り去ってでも、今ここから飛び出したい欲求を綾乃は抑えることができない。 「だから、行こうよ。天くん。」 綾乃は玄関へ小走りで行き、革靴を履いた。 そしてキャリーバックを持ち、部屋から飛び出した。 そしてすっかり暗くなった夜の道を早足で歩き出す。 『空を飛んだことなんて無いけど、それってきっとこんな感じだね。』 綾乃の気持ちは天にも昇るほど高揚していた。 体は綿がちぎれたかすが舞うが如き軽さで、心は何にも屈することがない一流の兵士のようなずっしりとした質量を含んでいた。 綾乃は自分とはまったく関係のないものと考えていたニュースなどで毎日のように報道される殺人事件、その心理がわかった気がした。 今こうして夜道を歩いていても、追われている気がしないし、色々と複雑に結びついた、皮膚を乱暴に傷つける荒縄のようなしがらみの全てから逃れられた気分だけが自分の全てを包み込んでいる。 こうしたものに包みこまれる末路を知っているのならば連続殺人などを起こすその心理に納得せざるをえない。 『正直、産業医さんのことは覚えていない。だけど天野さんの同級生、風間?風間さんを天くんがめちゃくちゃにしちゃったのは覚えている。』 はっはっと綾乃の呼吸は早くなる。 早足で歩いて約十分、元々運動が得意ではない綾乃の呼吸が乱れるのも仕方がない。 それとも少しだけのっぺりとした淡い笑みを浮かべているその心の中が綾乃を高揚させて呼吸が乱れ始めているのかは判断はできない。 『私はどうせ一人。どうせ見捨てられる存在。ね?天くん。でもあなたとこうして生きていく為の孤独なら私は喜んで溺れていくわ?』 綾乃は歩みを止めない。 全てが上手くいくという確信があった。 国家権力、司法にすら自分は縛られないという根拠の無い自信すらあった。 綾乃はやがて住宅地を抜けた。 駅を跨ぎ、オフィス街へと向かうその時、急勾配の坂を登る。 そこからは自分が住んでいた住宅地の灯りが見える。 透明度の高い秋風が、家屋からはみ出る灯りをわずかに震わせている。 綾乃は涙を少し浮かべた。 自分もあの一角に居て、部屋では一人だったかもしれないがあの灯りの一つとして参加していたのだ。 だがもうそれはできない。 わずか二〜三年程度しか居なかった町がこれほど自分を引き留めるものになるとは思わなかった。 「よし。私は、悪くない。行こう、天くん。」 綾乃はすっかりと梳かされた美しい髪をはためかせて、その場から軽やかな足取りで消えて行った。
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