わたしのこと

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綾乃は中学生となった。 一般的な市立の中学校へ進学した。 友人もできた。 小学校時代にいじめられていたといっても一部の話だ。 小学校の友人をつてにその輪は広がり、多くの友人に恵まれた。 今日は入学式を終えて一週間が経過した週末の金曜日。 授業は教職員の研修会の都合で午前で終わり、下校となった。 綾乃は家で一人昼食を取った。 綾乃の母親はフルタイムで働きに出ており、家にはいない。 父親は小さな商社の中間管理職で、帰宅時間はいつも二十時過ぎだ。 六十坪弱の敷地に五十坪程度のコンパクトで彩りも地味な一軒家のダイニングで綾乃はカップラーメンを食べ終えたところだった。 黒いタイトなニットの長袖シャツとクリーム色の少し短めのフレアスカートという大人っぽく、フェミニンな服装だ。 目の前に置かれたカップラーメンの屑とその服装が実にアンマッチだ。 思い切って大人っぽく仕上げたが、やはり低身長と細身が手伝ってしまい空回り気味だ。 そして何か約束をしているのか、慌てた様子ですぐに家から飛び出した。 急いでいても歯磨きと家の戸締まりは忘れない。 そう母親からしつけられたからではない。 歯磨きは綾乃にとってある種儀式的なものである。 息とは大気を吸い込み、自分の内部を通過し、使い古したガスを吐き出すもの。 そのガスは雑菌と唾液と口内のゴミのミストと混ざり合い再び大気へ放散される。 自分のそれが相手に与える不快感を考えると、せめて口内くらいは綺麗にしておくべきであると綾乃は考えていた。 家の戸締まりも一つの儀式だった。 「今からここを出ると、私はパパとママの娘じゃない。入江田綾乃という個人だ。」 という考えの元だった。 これは思春期特有の反発心ではなかった。 小学校の時に一部からいじめられていた時に身に付いた考えだ。 いじめを受けるというのは、その家族をまとて存在を否定されるというのが綾乃の考えだった。 いじめられ、存在を否定されるのは入江田綾乃一人でいい、学校にいる入江田綾乃は両親の娘ではないと考えるようになったのだ。 だから外出をする時は必ず戸締まりをした。 まるで自分の存在を家から消し去るように勢いよく鍵を回した。 自分は一人で戦いに行く、そう自分に言い聞かせるように。 いつしか「歯を磨く」、「外出時は戸締まりをする」という行動は一つのルーティンとなり、いじめを受けることがなくなっても続く良き習慣となって現在に至るのだった。 綾乃は早歩きで最近できた友人の家へ向かっていた。 「何も考えないで友達ん家に行くのがこんなに楽しみだなんてね。」 綾乃はアスファルトを突き破り、その先端を晴れた春の青空に真っ直ぐ向けた雑草を横目で見て空と同じ晴れやかな笑顔で言った。 歩く速度が上がる。 「いっつも天くん達に見つからないかって、びくびくしてたからなぁ。」 綾乃はそう言った瞬間、目が泳ぎ始めた。 「み、見つかったら…」 綾乃は歩く速度を更に上げていく。 いじめを受けていたその様子が綾乃の脳内で再生されている。 「ハァハァ…私はでも…大丈夫…。」 早歩きで息が荒くなり、いじめられていた感情がフラッシュバックしているにも拘わらず、綾乃は満面の笑みだ。 フラッシュバックに対する防御にも見えるその笑みはやはり妖艶だった。 口元は裂けんばかりに横に広がり、口角は上がり、白い歯がだらしなく春の空気に触れ、特徴的な目は不自然に見開かれ、逆ハの字の眉毛の間には深いしわが刻まれている。 「なぜなら…ハァハァ…天くん達は…」 綾乃の小さな体は信号が無い狭い交差点に入ろうとしていた。 一台の軽自動車が綾乃とほぼ同じタイミングでその交差点に右から進入してきた。 このまま行けば、綾乃の体に右から垂直に激突することになる。 そしてその軽自動車は交差点に差し掛かろうというのに速度を上げてきた。 間もなく綾乃の小さく柔らかい体に、同じく柔らかい鉄の塊が高速度で食い込む。 綾乃はフラッシュバックの最中でまるで交差点に迫る異変に気が付いていない。 軽自動車の運転手も綾乃の存在に気が付いていないのか、まるでスピードを落とさない。 綾乃までの距離約50m、30m、10m、そして綾乃を破壊するその直前、その軽自動車は突然ハンドルを切り損ねたかのように、道路脇の広めの側溝に落ち込み、ドン!という衝突音が響いた後にガリガリ、ギギギと金属が破断するような音と共に車は停止した。 「ンフフ!天くん達は…死んだから!」 綾乃は事故を起こした車に目もくれずに早歩きを継続し、大きな声で吹き出すように笑ってその場を去った。 綾乃は自分をいじめていた人間が死んでから初めて喜びと共にその事実を叫んだ。 その異変は神がくれたものであり、それは自分に訪れないという自信が宿り始めていたからだ。 自分をいじめていた人間が消えた環境があまりにも快適であり、あまりにも楽しく、あまりにも心が躍るものだから、それに順応した結果ではあるが、自分自身がとてつもなく冷酷な人間であるという自責の念がまったく無いわけではなかった。 「ハァハァ…フフフ!いっつもそう!アハハハ!何かと何かが混じり合うと本当に気持ちいい!気持ちいいイィ!早く行こ!早く遊びたい!」 綾乃の心は言葉通りいつも、異質なものを混ぜては、高火力の爆弾を作っていた。 それはいじめられている時も同様だった。
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