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第一章
「天野さん、今日の午前中余裕あったね。」
上下クリーム色の社章が刺繍されている作業着を身に着けた綾乃は自分のデスクの真後ろの同じ身なりの同僚に声をかけた。
「そうだな…でもまぁ午後から忙しくなるぞ。」
同僚の男性は同期入社の天野啓二だ。
綾乃は高校卒業後に就職したが天野は地元の大学を出ての入社なので年齢は綾乃より四つ年上だ。
綾乃の仕事はライン工である。
朝の七時から夜の七時までの十二時間勤務と、夜七時から朝の七時までの十二時間勤務の二交代制の勤務形態である。
綾乃は高卒ながら非常に優秀な成績で入社し、小さな体をフルに動かし、その功績を認められて経験わずか二年でサブリーダーのポジションを与えられた逸材である。
天野も大学のレベルは低いものの、綾乃と同じく優秀な成績で入社し、豊富な改善意欲と、効率化を図り、業務効率を向上させた功績を認められ、やはり経験二年で綾乃の上役に当たるリーダーというポジションを与えられたわけである。
この会社ではサブリーダー以上になると、主任、係長などの管理職と同部屋に席が与えられ、ライン工の仕事プラスちょっとした事務仕事も与えられる。
今は昼の十二時、昼食休憩の時間だ。
「さてと、片付けも終わったし。飯食うかな。」
「お疲れ様です。私も食べよ。あ…」
綾乃は天野の真似をして背伸びをしたところ、甘いコーヒーが入った白い陶器製のマグカップを落とした。
綾乃が入社以来使っているお気に入りのマグカップが確実に叩き割れる。
白い床に落ちようとしたその瞬間、キャスター付きの椅子に半分腰かけた状態で腕を伸ばした先端の天野の大きな手がそのマグカップを捕らえた。
コーヒーは見事に飛散し、天野の作業着の袖を濡らし、床を濡らした。
「お、おみ、お見事…」
綾乃は絶望から瞬時に立ち直り、何から物を言っていいのかわからない混乱した状態で、思いつくままを口にした。
「お見事じゃないだろ?馬鹿が。」
天野はぬぅっと立ち上がり、ブスッとして綾乃に悪態をついた。
「あ、その…ごめんなさい…」
綾乃は椅子から立ち上がり両手を前に添えて頭をぺこりと下げた。
中学校時代から少しも身長が伸びなかった綾乃の容姿は二十歳となった今もまるで変わっていない。
「違う。」
天野は低く、柔らかい声で綾乃に言った。
天野は180cmをわずかに超える身長で、がっちり体型だ。
柔道経験者である為、首が太い。
角刈りのような短髪で、太いが美意識が高いと取れる整えられた眉毛、そして小さな綾乃を見下ろしている、草食動物のような優しい目が特徴的だ。
高い鼻と形の良い唇で、全体的に整った構造であるがなんとなく地味に見えてしまうのは髪型の影響だろうか。
「謝る前に言うことがあるだろう。」
天野はコーヒーに濡れた右の袖を左手の親指と人差し指で摘みながら言った。
口調は怒りを帯びているのに、目は本当に優しさに溢れている。
「あ、その…あ、ありが…とうございます…」
「それでいい。ホラ。気をつけろよ。」
天野は大きな手に包まれたマグカップを綾乃の小さな手に渡した。
「うん、ホントありがとう。」
「あぁ、昨日洗濯したばっかなのに、まったくもう…床は自分で拭いてな?」
天野はそのまま事務室から出て行ってしまった。
「ありがとう…」
綾乃はマグカップを小さな手で優しく握り締めた。
天野を目で追う自分になんとなく気恥ずかしさを覚えた綾乃は、慌てて自分のデスクからボックスティッシュを取り、床を拭き始めた。
昼食休憩が終わると、綾乃はラインに入り、汗をかきながら仕事に勤しんだ。
機械部品加工のラインで、小型のプレス機のようなもので、次々とコンベア式で流れてくる部品をプレス機にかけていく。
プレス機は豪快な音を立てて流れてくる部品を加工する。
綾乃は汗を拭おうとクリーム色の作業帽を一旦外して額を手のひらで拭った。
「ふぅ…暑いなぁ…」
綾乃は再び作業帽を被ろうとしたその時、アップにしてまとめていた髪の毛が軽やかな音を立てて下に垂れ下がった。
二十歳の今も変わらず、肩甲骨下まである美しい黒髪だ。
タイミング悪く、ガコンガコンという機械音と次の部品が流れてくるブザーが吹鳴しコンベアが作動した。
「うぁ、まずいまずい。急がなき…」
ゴムを口に咥えて両手で髪を素早くまとめようとした時、コンベアの回転可動部に髪の毛が巻き込まれたのだ。
大きさはそれほどでもないが、鉄製の機械部品を搬送する荷役装置だ。
力は半端なものではない。
なのでズボンの裾は脚絆を、作業着の裾は腕抜きを、長い髪はまとめて作業帽の中へと決められている。
それほどこの回転可動部には神経を使っているのだ。
「あっ!!」
綾乃の体はガクンと横に引っ張られた。
このまま巻き込まれれば体は押し潰されてぐちゃぐちゃにされてしまう。
そしてこんな時に限って周囲には人気が無い。
「うああああ!!」
綾乃の悲鳴と同時にガチャンと轟音が響き、メカストッパーが入り込むギギギと金属が擦れる音がしてラインは止まった。
「ハァハァ!!た、助かった…。」
綾乃は髪の毛を押さえて、目だけを動かして周囲を見回した。
すると斜め後方から聞き慣れた声が聞こえた。
「安全帽取る時は安全地帯まで離れる、基本だろ?馬鹿が。」
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