第一章

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「あ、ありがと…ございます…。」 「ラインを止めた。ここはすいませんが先だよ。ホラ、すぐにリセットして前工程に連絡して。」 天野は相変わらずぶっきらぼうだ。 しかし、綾乃はそんなことは気にならない。 自分の体が可動部に巻き込まれて引き裂かれる、その想像をして綾乃は改めて生唾を飲み込み、震え上がった。 四つん這いになったまま立ち上がることはできない。 その時、綾乃の心に気味が悪く、真っ黒な感覚が沸き起こった。 自分の後ろに立つ天野の視線と自分の体勢に違和感を感じていると、綾乃の目から自然と涙がこぼれ落ちてきた。 涙の一滴が寒々しい工場の床に落ちた瞬間、綾乃の脳裏に美登利の声が、まるで寺の鐘を打ち鳴らしたようにグワングワンと内臓を揺さぶるように響いた。 『天くんの言った通りね!!亀さんになろうって言ったら面白いって。』 「うわぁあああああ!!あなたも私をいじめるの!?どうして!?あなたも天くんと同じ!?天くん達と同じぃぃ!?やめてやめてやめてやめてやめてエエェェ!」 綾乃は額を床に着けて、両手で頭を抱え、大声を上げた。 天野は体を一瞬震わせると、すぐに綾乃に駆け寄った。 「おい!!入江田!!どうした!?おい!」 「う、うわぁ!!ど、どうして!!」 天野は片ひざを着き、綾乃の頭に手を添えた。 周りに他の同じ格好をした老若男女の作業者が集まってきた。 天野はその中の一人と目を合わせて叫んだ。 「医務室へ連れて行く!!えぇっと、切削工程から一人応援を出して下さい!!入江田の代理、ここできる人!切削工程から出して!!」 緊迫した様子に気が付いた周囲の作業者はワチャワチャと騒がしく動き、すぐに天野から声をかけられた作業者も慌てて無線の電源を入れて何やら慌ただしく連絡を取り始めた。 「クソ…入江田!しっかりしろ!!」 天野は綾乃の後頭部に手を添えたまま叫ぶが反応は無い。 ただひたすら同じ体勢で嗚咽し、その度体を痙攣させているだけだ。 しかし天野は徐々に、ゆっくりと綾乃の体勢が変わっていくことに気が付いた。 ゆっくり、ゆっくりと、ズズッ、ズズッと音を立てて変わっていく。 天野は目を開き、綾乃の腰、そして臀部に視線を順番に移した。 「い、入江田?」 綾乃はゆっくりと臀部を上へ上へとせり上げている。 まるで四足歩行の生物が交尾を待ちわびているようだ。 その体勢は実に艶めかしく、体型もわからない衣服を身に着け、顔も隠しているにも拘わらず、確実にそこにいるのは「雌」と誰が見てもわかる。 天野はごくりと喉を鳴らした。 あまりにも「雌」の体勢をしている綾乃の臀部から目が離せない。 「おおい!天野ぉ!切削から一人来れるってぞ!」 無線を飛ばしていた作業者が天野に向かって大声を出した。 「マ、マジか!助かる!ヨシ!じゃあ後頼む!!ホラ!立て!入江田!」 天野は右腕を綾乃の左脇に入れて、引き起こした。 「あ…」 綾乃は一言だけ発した。 単純に「あ」とだけである。 と、同時に嗚咽が止まり、痙攣と鼻をすするだけになった。 そして「あ」というその声は天野の心を握り潰した。 綾乃の左脇に入れた天野の上腕に汗の湿り気を感じたことで天野は何かの危機を感じて振り払うように声をかけた。 「ほら、しっかりしろ。どうしたんだお前…。」 「…。」 そのまま脇に腕を通し、綾乃の肩に脇から通した手を当てて支えながら天野は歩き始めた。 綾乃はフラフラとそれについて行く。 「あ…フフッ…。」 「え?」 天野は驚いて綾乃の顔を見ようとした。 しかし、髪が乱れてよく見えない。 「何があったか知らないけど…この借りはしっかり返してもらうぞ、入江田。」 「あ…。」 小さく返事のようなものが天野には聞こえたが、定かではない。 天野は医務室へ急いだ。 とにもかくにもラインが動き始めた今、自分が早いうち戻らねばならない。 『なんだよコレ…クソ…い、入江田が…なぜこんなに愛しく見える…?いや、愛しいんじゃない。コレは違う…そして妙だ…入江田がこんなしょうもないケアレスミスなんぞするわけがない…。それと、それと…それと…何か…何かが…変だ…。』 天野は妙な胸騒ぎを感じた。 『か、関わっちゃいけない…入江田綾乃と…関わっちゃいけない…そんな…そんな気がする…。』 胸騒ぎを感じながらも天野は持ち前の体格の良さを活かして素早く医務室に綾乃を運んだ。 医務室のドアを乱暴に叩き、天野は言った。 「失礼しまぁす!!急病人です!お願いします!!」 すぐに中から返答が来た。 「はい、どうぞ。入って下さい。」 天野は勢いよく医務室のドアを開けて、綾乃を運び込んだ。 「はいはい、そこ寝せていいよ?」 だいぶ年を召した男性産業医が肘掛けの付いた大きめの椅子に座っていたが、天野の姿を見るなり勢いをつけて立ち上がった。 姿勢が悪いのか、高齢で腰が曲がっているのかわからない。 天野は少し、嫌そうな顔をして産業医が指差した鉄骨製のベッドに綾乃を横たえた。 「ふぅ…」 天野は作業帽を取り、額の汗を右手の甲で拭った。 「んで?どしたの?」 高齢の産業医は目をぱちくりとして天野の顔を見て言った。 「わかりませんよ。なんか急にパニックみたいになって…動けなくなった。それだけです。」 天野は不機嫌そうに答えて、小さな丸椅子に腰かけた。 「パニックねぇ…どれ。」 高齢の産業医は綾乃に近づいて、右手の平を綾乃の額に近付けた。
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