2人が本棚に入れています
本棚に追加
その瞬間、高齢の産業医は何かに突き飛ばされたようにして背後のキャビネットにくの字になり倒れ込んだ。
「ぐぅおえええ!ぐぅおおおお…!」
「だ、大丈夫ですか!?ちょ、ちょっと!」
高齢の産業医は自分の水月を押さえて、血走った目を見開いてのたうち回っている。
天野は産業医に駆け寄るが、あまりの苦痛に暴れ回る産業医に近付くことができない。
『な、何があった?』
天野は思考を巡らせるが、今までの人生で遭遇したことが無い事態に対応が思いつかない。
全てが順調ともいうべき天野の人生で、これほど計り知れない事態は不透明な、霧がかかった夢の中でさえも経験が無い。
「が…」
苦痛に悶えていた産業医はそのまま気を失ってしまった。
天野はすぐに保身を考えた。
この状況は確実に自分に火の粉が降りかかる。
『もう産業医がどうこうじゃない。き、救急車だ!』
天野は保身の後に産業医と綾乃の身の安全をすぐに考えた。
その時、自分のすぐ横を通り過ぎる影のような、空気のような、一定ではない風のようなものがふわりと通り過ぎた。
そしてわずかに感じる軽やかな空気の動きが、天野の周りを一周してすっと消えた。
天野はぶるっと身震いを一つした。
そして血の気が引いていく。
天野は、通過していったその何かに対して明らかに良くないものを感じ取った。
そしてこの事態を引き起こした綾乃に対して怒りのような感情が、刺々しいものではなくなぜがふわりと丸いものに包まれたように、爆発的にではなく、栓を微開にした水道のようにちょろちょろと心の中に溜まっていった。
やがてそれは溢れる。
「く、こ、これはどうすりゃ…どうすりゃいいってんだよ!!おい!入江…だ…」
天野はぎょっとして目を見開いた。
目を閉じていたはずの綾乃の目が天野と同じくらいに見開かれている。
天野ではないどこかを、一点のずれもなく見つめている。
「天くん…天くんに見てほしい…痛くしてほしい…」
目とは正反対に半開きとなった口、ささくれだった唇から、かすれたような妖艶なトーンで綾乃は言った。
言い終えると徐々に目が閉じていった。
その目からは涙が溢れ、一筋の線を描いて枕へ吸い込まれる。
「い、入江田…。」
天野は辺りを警戒するように見回して、産業医のデスクにある公設救急への緊急連絡用の電話の受話器を取った。
・・・
そこから天野は、食事を取る時間もないほどに忙しかった。
工程長とともに綾乃と産業医の付き添いから戻ると工程長よりも更に上役から綾乃の容態と産業医が倒れ込んだその時の状況説明を求められた。
よほどのことがないと天野などのリーダーが現場で見ることがない工程部長とその秘書数人にまるで尋問のように問い詰められたのだ。
天野は自分の正当性をひたすらに訴え続けた。
しかし相手は大勢のエリート社員の中から選び抜かれたエリート中のエリートである部長だ。
決して折れず曲がらず、天野のあるはずがない闇を暴こうと真っ直ぐに問い詰めてくる。
「もういい!!それほど自分を悪者にしたくばもうなんとでもしてくれて結構です!でも産業医の意識が戻ったら産業医に直接聞いて下さい!!懲戒にするならそれで結構!!でもまずは産業医に話を聞いて下さい!!そこからもうご自由にしてくれて結構です!!」
天野は幹部社員達を怒鳴りつけた。
実際真実を知るのは産業医しかいないのである。
幹部社員達は天野の提案に口をへの字にして頷いた。
そしてようやく天野が作業着から私服に着替え終わったのは夜十一時だった。
天野は会社の敷地から出ると、そのまま駐車場へと向かい軽自動車に乗り込んだ。
そして一息つくと、ハンドルに突っ伏した。
「入江田!!お前…!!」
全ての元凶は綾乃、天野はそう思った。
そう思うと叫ばずにはいられなかった。
しかしそれ以上の悪態が出てこない。
仕事人間と言っても過言ではない天野だ。
今日の失態と、幹部社員に目を付けられたという事実はキャリアを脅かす有力な材料となってしまうのは確実だ。
それは仕事人間の天野のキャリアプランにおいて耐え難い痛手になる。
どれほど悪態をついてもいい権利が自分にあると思っていてもなぜかそれができない天野は、そのもどかしさをハンドルにぶつけた。
「病院から戻ったら…ただじゃおかない。」
天野は顔を上げてハンドルを殴打しながら呟いた。
「それにしても…。」
天野は急に冷めた脳で、今日一日を数倍速で回想した。
その回想の中で最終的に行き着いた疑問点は何度も出てきた自分の知らない名前、「天くん」だった。
「だ…誰だよ…天くんて…。」
天野は素直な疑問を素直な口調で素直に吐き出した。
「誰なんだよ…それ…」
天野はもう一度同じ意味の言葉を吐いて車のエンジンをかけた。
コツンと木の実か何かが車の天板に落ちる音がした。
天野は車を発進させた。
「見てほしい…?痛くしてほしい…?」
天野は運転しながらも意識は回想の中にいた。
「それってどういう…」
天野は思い出したセリフに対して、綾乃の尻をせり上げていく姿や、妖艶な声を当てはめていく。
「それってどういう…」
天野は煩悩を振り払うかのようにもう一度同じセリフを吐いた。
天野は上腕に残る、綾乃の脇肉と汗の感触を反芻しながらアクセルを踏んだ。
最初のコメントを投稿しよう!