冤罪悪役令息は甘い罠から逃げられない

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 それを暖炉の傍に置くと、再び外に出て今度は鉄の大鍋を持ち運び、その中に水を入れて暖炉で湯を沸かし始めた。 「リチャード、これは……?」 「すぐに分かるよ」  困惑気味に問うイアンに、リチャードは秘密めいた笑みで答えて、また作業に戻った。  湯が沸くと、ジェフが小ぶりの木桶を使って湯を大きな木桶の方へ移していく。  リチャードは外からタオルを持ってきて、その後は桶に湯が溜まるのをジェフの背後に立ち、楽しげに眺めていた。  ここまでくれば、何を準備しているかは明白だ。  最後、桶に溜まると、リチャードは懐から小瓶を取り出し、蜜のような液を数滴垂らした。 「……よしっ、イアン、準備ができたよ。さぁ、入って」  イアンの方を笑顔で振り返って、リチャードが言う。  それは簡素ではあるものの、間違いなく風呂であった。  この部屋にこもってからはもちろん風呂に入ることはなく、いつも濡れた布で体を拭くだけだった。  ほんのりと漂ってくる湯気に、体が少しだけ緩むのを感じた。  そんな微かな体の弛緩を感じ取ったのか、リチャードは笑みを深めて言葉を続けた。 「ここに来てからずっと緊張し通しだっただろう? 湯に入れば身も心もほぐれるはずだ。ジェフ、あれを持ってきてくれ」 「かしこまりました」  命じられたジェフは外に出ると、大きな木の板を持って戻ってきた。そして、それを浴槽とベッドの間に立てて置いた。   「さぁ、衝立も準備できたし、ゆっくり入っておいで。僕はここで本でも読んでおくから」  そう言って、リチャードはベッドに腰を下ろした。  思いも寄らないことに驚き、戸惑っていると、リチャードが微笑んだ。 「ほら、早く入らないと湯が冷めるよ。それじゃあジェフの労力が無駄になってしまう。それともひとりじゃ入れない?」 「そ、そんなわけないだろうっ。入るよ、入る」  からかうように子供扱いされ、イアンは勢いよくベッドから立ち上がった。  そして衝立の向こうへ行くと、服を脱いだ。  服を脱ぐと湯気が直に肌に触れて、張り詰めた神経がホッと緩むのを感じた。  手で湯加減を確かめてから、浴槽の中に入る。  浴槽の半分くらいだった湯が、イアンが入ったことで胸のあたりまで嵩を増した。 「はぁ……」  湯の温もりが全身に行き渡って、緩みきった口から我知らず安らぎの吐息が漏れた。  湯気に混じって香る匂いは、恐らくリチャードが最後に入れた精油だろう。花の精油なのか、甘く華やかな香りで、息を吸うたびに暗鬱とした胸の内が晴れるような心地よさを覚えた。 「どう? 気持ちいい?」  衝立の向こうからリチャードが訊く。姿が見えなくとも、優しい眼差しが感じ取れた。  イアンは久しぶりに心からの笑みを浮かべて頷いた。 「うん、気持ちいいよ。最高だ」  そう言って、両手で湯をすくって顔を洗った。   「本当に、生き返るようだよ。……ありがとう、リチャード」  イアンは衝立の向こうを真っすぐ見つめるようにして、礼を言った。  すぐにいつものような軽やかさで「どういたしまして」といった言葉が返ってくるものだと思っていたが、なぜかリチャードは黙ったままだった。  どうしたのだろうかと不安な気持ちになり、声を掛けようとしたところで、ベッドが微かに軋んで立ち上がる気配がした。   「リチャード?」  名を呼びかけるが返事はなく、足音だけがこちらに近づいてくる。  足音は衝立の前で止まった。  そして、控えめに衝立をノックすると、 「……イアン、そっちへ行ってもいい?」
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