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これまで張り詰めたものが全て抜けたような安堵しきった声は、微かに涙の気配を帯びて震えていた。それだけで、リチャードがどれだけ自分のことを案じてくれていたかが分かった。
イアンは目頭を熱くした。
「ありがとう、リチャード。もし君がいなかったら俺は――」
断頭台の前に立つ自分の姿を想像して、体がすくんだ。イアンはぎゅっとリチャードの拳に自分の手を重ねた。
「本当に、ありがとう……っ」
イアンが震える声で感謝を伝えると、リチャードは顔を上げ、複雑な表情で微笑んだ。
「感謝されるほどのことはしていないよ。本当は君の無実を証明して、刑を取り消したかったんだ。だけど、そうするにはあまりに時間が足りなかった」
リチャードは目を伏せて、不甲斐なさそうに言った。
「聖女の証言と、彼女が襲われた場所に落ちていた君の万年筆のせいで、犯人は君ということを、誰も疑いもしなかった。……まるで、あらかじめ君が犯人ということが決まっているかのように、不自然なほどスムーズに君の刑が決まったんだ。イアンはこのことに何か心当たりはある?」
リチャードが視線を上げて問いかける。イアンは内心、ドキッとした。
この件に関して、イアンは心当たりどころではないことを知っていた。
それは、この世界が前世で読んだ恋愛小説『穢れた聖女は白薔薇の夢を見る』の世界であること、そして、自分が聖女への片思いをこじらせて彼女を襲う悪役令息、イアン・オークスに転生したこということだ。
強姦され心に大きな傷を負った聖女は自分の殻に引きこもってしまうが、自分に尽くしてくれる聖騎士に徐々に心を開き、やがて二人は愛を育んでいくというのいうのがメインストーリーであり、イアン・オークスは物語序盤で聖女を襲った罪で処刑され、物語から退場となる。
この作品の大ファンだった姉に無理やり読まされた時は心底うんざりしたが、『穢れた聖女は白薔薇の夢を見る』の世界に転生したのだと気づいた時は、姉に心から感謝した。
イアンは処刑を回避するため、とにかく聖女との接触をことごとく避け続けた。
そもそも、イアンには聖女に対して恋愛感情などなかったし、ましてや女性を無理やり襲おうなどという下劣な欲望も微塵もなかった。
だから、処刑という最悪の人生の終幕を避けることは、さして難しいことではない――、そう思っていた。
しかし蓋を開ければ、いわれのない罪に問われ、あれよという間に刑が確定した。それこそ、リチャードが言う通り『まるで、あらかじめ君が犯人ということが決まっているかのように』といった感じであった。
(もしかすると、俺の意志なんか関係なしに、物語が進んでいるとか……?)
この世界が、聖女と聖騎士の愛の物語のために生まれた世界だと考えれば、不思議なことではない。
聖女が心を閉ざすきっかけとなった、イアンによる強姦は物語において必須である。これがなければ二人の物語は始まらない。
物語装置として『イアン・オークスに聖女の純潔が犯された』という展開は、この物語の絶対的条件として存在すると考えると、罪のないイアンの刑が不自然なほどすんなりと確定するのも頷ける。
この物語、ひいてはこの世界において、イアンが実際に聖女を襲ったかどうかはどうでもいいのだ。必要なのは、物語の絶対条件となる展開のみ。
二人のための物語において、自分のような端役の意志などまるで意味を持たない、ということなのかもしれない。
その考えに至った瞬間、全身に冷たい戦慄が駆け巡った。
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