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二章
少年が不可思議な森を抜ける一時間ほど前。
倒れた細い柱に腰掛けて、つまらなさそうな顔で遠い昔に滅んだのだろう文明の残骸たちを眺めていた少女は、自身が育った孤児院で何度も繰り返し読んだ〈救済の匣〉の物語を思い返していた。
(ハコの中にはどんな絶望にも負けない希望が入っている……その希望さえあれば、孤児院のみんなを助けることが出来るかもしれない)
半年前に孤児院や近隣の村で疫病が蔓延し、次々と倒れていった兄妹たちやシスターを町医師に診 せたが、いまの医学では治すことができない病だと匙を投げられたときの絶望、そしてベッドの上で苦しそうに胸元や首を掻きむしる彼らをただ見ているしか出来ない無力感が、少女を数ヵ月もの間苛み続けていた。
このままだと、みんな居なくなってしまうのではないか。
身寄りのない少女にとってそれは何よりも恐怖だった。
そんなとき──ふと〈救済の匣〉の存在を思い出し、半ば強引に院長の制止を振り切って飛び出してきたのだが。
「本当に、この先の街にハコがあるのかしら」
膝の上で頬杖を突いた少女は不安げにぽつりと漏らした。
匣を探しに行くと飛び出す直前、週に一度荷車に食料や生活用品を積んで孤児院まで運んで来る青年に「最近、不思議な匣があるって噂になってる街があるんだが……」と教えられ、途中までは青年の助けを借りてどうにか此処まで来たわけだが……もう三日、歩き続けているというのに目的地らしい街が一向に見えてこない。
体力自慢、そして元気が取り柄である少女も、流石に疲れが身体や顔に出てきていた。
けれどもこんなところでずっと休憩なんてしていられないと、気合いを入れ直すように自身の頬を両手でパチンと叩き「さて、行きますか!」と立ち上がりかけたとき、
「お嬢ちゃん、林檎はいらんかね?」
突然、背後から声をかけられてばっと振り返った。
「驚かせちゃった? ごめんごめん。こんなところに人間の女の子が一人でいるのが珍しくてつい」
悪びれずに言うその男は、熟した林檎よりも赤い髪が印象的で、
(夕焼けみたいな色だなぁ)
物珍しさから思わずじっと魅入ってしまう。
そんな少女の視線には気を悪くすることもなく、男は小さな手の上に林檎を乗せてやると、無遠慮に彼女の隣へ腰を下ろした。
「キミ、名前は?」
「……怪しいひとにはすぐに教えちゃだめだって、院長先生が言ってた」
「ふーん? でもこうやって話してる以上、キミとオレはもう友達さ。そうだろう?」
「……そう、なのかも?」
「そうそう。だから友達であるオレに名前を教えてくれよ」
「……、ドーラ。あなたは?」
ドーラと名乗った少女は渡された林檎の表面を服の袖で拭きながら、飄々としている男の横顔をちらりと見遣る。
孤児院の外の人間とは殆ど関わった経験のないドーラにとって、見知らぬ人間との交流は新鮮であり、警戒よりも好奇心が前に出てきていた。
「オレは天使から〝悪魔〟って呼ばれてるけど、まぁ適当に呼んでよ」
「悪魔、ね……」
(天使と悪魔……新手の不審者かしら)
自身が知らないだけで、外の世界には空想上の生き物たちがそこかしこに居る可能性がないとは言えきれないが、ドーラには隣の男が自分と同じ人間にしか見えず、彼の言葉を鵜呑みにすることは出来なかった。
ほんの少し不信感を抱き、静かに距離を取ったドーラに構わず悪魔は不意に「ところで」と視線を合わせ首を傾げる。
「さっき匣がどうとかって言ってたけど、何か探してるのかい?」
「……この先に、カランって街があるんだけど。そこに救済の匣って呼ばれてるハコがあるらしくて……それを探してるんだけど、あなた、何か知らない?」
警戒しつつも素直に答えるサマが、しっかりしているように見えて彼女がまだ幼い子どもであることを表している。
「救済の匣? あー、中に希望が入ってるとかっていう、あの胡散臭いヤツね」
「知ってるの?」
「知ってるも何も、あれはオレが作ったモノだからなぁ」
「……ええ!?」
悪魔の口から予想外の言葉が飛び出し、驚きで一口齧ろうとしていた林檎を落としかけたドーラは食い気味に「本当なの!?」と訊ねた。
「嘘だよ、嘘。悪魔が希望を詰め込んだ匣なんか作るわけないだろ」
「……もう! 信じちゃったじゃない、おバカ!」
「はは、悪魔は嘘を吐くものだって神父様に教わらなかった?」
ぷくっと頬を膨らませるドーラを揶揄うように喉を鳴らして笑い、距離を詰めて座り直すと人差し指で軽くつついた。
「なんでドーラはあんなモノを探してるんだ?」
「……言わない」
「どうして?」
「言ったってまたわたしをからかうだけでしょ」
「そんなことないって。これは純粋な興味だよ」
ぷす、と頬に溜め込まれた空気が抜ける音がすると、悪魔は指を退けて「言ってごらん」とでもいうようにドーラの顔を覗き込む。
「家族たちが治らない病気にかかってしまったの。だからその病気を治したくて探してるんだけど、ずっと歩いてるのに見つからなくて困ってたとこ」
「へぇ。治らないって言ったのは医者なんだろ?」
「そうよ。町のすごいお医者さんに診てもらったけど、治せないって言われたの」
(あーはいはい、そういうアレね)
人間の心理をよく理解している悪魔だが、この手の話を聞く度に『いずれ皆死ぬのに何故受け入れずに抗おうとするのか』と思う。
閉口し、心底下らないとばかりに一瞬表情を消したが、ドーラはそんな悪魔の様子には気付かず続けた。
「昔、旅人さんが孤児院に来たことがあるんだけど。そのときに救済の匣の話を聞いてね。それを思い出して、もしかしたらみんなの病気を治せるんじゃないかって思って……」
「成る程? それならわざわざ匣なんか探さなくても、オレと契約すればすぐに解決するケド。どうだい?」
実在するか解らないモノを闇雲に探し続けるよりも、彼がもし本当に悪魔なら不思議な力で問題を解決してくれた方が良いのでは──悪魔の提案に、そんな考えが一瞬過ったが、ドーラは彼がニヤリと口許に弧を描いたのを今度は見逃さなかった。
「けいやくって、何かを差し出さないといけないんでしょう? 例えば、ええっと……命とか?」
「よく解ってるじゃないか。だけど、オレの場合は命なんかもらっても使い道がないし困る。ああ、金も要らないから」
「そうなの? じゃあ何ならいいのよ」
「そうだな、願い事と同じだけキミが大事だって思える何かを差し出せばいい。それは目に見えないもの……忘れたくない思い出とか、そういう記憶の一部分でもいいし、人間が人間らしく生きる上で必要な欲なんかも対価に成り得る」
欲、というのは子どもが理解するにはまだ難しいが、思い出が無くなってしまうかもしれないのは怖いなと、ワンピースの裾を無意識に握った。
「──これは親切心ってヤツで言うけどさ。悪魔との契約に限らず、何に於いても必ず対価がいる。キミが探している匣がもしあったとして、希望とやらによって家族が救われてみんなハッピーエンド、なんて都合の良いことがあると思うか?」
「…………」
(みんなが助かった分だけ、差し出さなきゃいけない対価ってものが大きいってこと? でも、思い出以外にわたしに差し出せるものってなんだろう……)
ここでふと、ドーラは疑問を口にした。
「もし……もしもよ? ハコに対価を差し出せなかったら、どうなるの?」
契約の類が自身にとってリスクの高いものだと何となく子どもながらに理解したものの、では救済と名の付く匣に家族を治してほしいと願った時、ソレは彼女に何を要求し、応えられなかったら一体どうなるのか。
悪魔なら答えを知っているのではと期待したドーラだったが、すぐにがっかりさせられることになる。
「さぁ、それはそのときになってみないことにはなんとも。ただ、そんな得体の知れないものに願うとなると、オレとの契約より対価は大きいのは確かだ」
「そっかぁ……」
いつの間にか最後の一口になっていた林檎を食した悪魔は、指で口許を拭いながら項垂れたドーラを横目に「悪いことは言わない、オレにしとけよ」と、芯を地面に放った。
「それが嫌なら、帰って大人しく家族を看取るかだ」
看取る、という言葉に反応し小さく肩を震わせる。
家族を救いたくて、けれども自身よりもずっと知恵のある大人ですらどうすることも出来ないと知り、藁にも縋る思いでこの旅を始めたというのに、今しがた出逢ったばかりの男に自分の行動を否定されているような気持ちになって泣きそうになった。
そこに追い打ちをかけるように、悪魔は独りごちる。
「誰もが納得する整えられた結末は、物語の中だけだ。オレたちが生きているこの現実は違う」
きっと、自身よりも長く生きているであろう悪魔がそう言うなら、そうなのかもしれない。
だんだん悲しい気持ちになってきて、じわりと目尻に涙が浮かぶ。
ドーラがいま何を考えているのか察した悪魔は、浅く息吐くと彼女の頭に掌をぽん、と乗せた。
「自分にとっての最良を考えな。それが結果に繋がるし、少なくとも選んできた自分だけは納得出来るだろう」
(……励ましてくれてるのかな)
彼の言葉はドーラには少し難しいが、掌の熱が不思議と安堵感と元気を与えてくれる。
「ねぇ。悪魔ってもっと怖いものかと思ってたけど、……アンタって本当に悪魔なの?」
突然何を言い出すのかと思えば、と瞬いた悪魔はふっと口許を緩めて告げた。
「キミがオレを悪魔と呼ぶなら、きっとそうだよ」
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