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五章
少年が目的地である街外れに着いた頃には真夜中になっていた。
昼と違って涼しく、空を見上げれば丸く大きな月や、天使が言っていたように無数の星もよく見え、何もかもが美しく見える夜の世界を軽やかな足取りで往く。
「還っておいで」
子供でも老人でもなく、男でも女でもない、不思議な声が聞こえて視線を巡らせた少年は数歩先、月明りに照らされて妙に存在感のある四角い物体を見つけた。
「……!」
少年はソレが匣であることを確信し、歩みを早める。
(いがいとおおきい……)
やがて匣の前へ辿り着いた少年は、予想に反して人ひとりは入れそうな大きさであることに驚きつつも、側面や地面に置かれた蓋らしき板に掘られている文字に視線を向けるが、壁画に描かれていたものと同じ形をしている事以外何も解らなかった。
匣の中には何か入っているのだろうかと覗き込むと、空っぽのそこに少年の影と妖精から贈られた花冠が落ちる。
「あ……」
慌てて拾おうと縁に手をかけ、身を乗り出して腕を伸ばしたとき、パキッ、と少年の背後で枝が折れる音がし身体を起こそうとしたが、それより早く何者かに突き飛ばされて自身も頭から落ちてしまった。
(いたた……)
一体何が起きたのかと軽く頭を押さえながら見上げると、恐怖の色の浮かべた少女と一瞬視線が交わる。
────そして、世界は閉ざされた。
❖
「祈りを捧げよ」
久し振りにベッドで休息を取っていたドーラの脳内に、不思議な声が響く。
その声は波紋のように身体の末端まで広がり、彼女の心を揺さぶり起こした。
「……?」
呼ばれている気がして目蓋を開けたドーラは、寝惚けているかのようにぼんやりとした表情のままベッドを下りると、物音を立てないように部屋を出て、裸足のまま誰にも何も告げずに館を抜け出した。
月明りが余り届かない鬱蒼と茂る森を数分往くと、木々の隙間から建物の影が幾つか見えてくる。
やがて街外れの開けた場所に出てきたドーラは夢から醒めたようにハッとした。
「え、わたしなんで外に……」
此処までの記憶はぼんやりとあるものの、まるで誰かに操られていたような……自分の意思とは関係なく身体が動いていたことに気味の悪さを覚える。
乾いた風に頬を撫でられ、小さく身震いして館に戻ろうと踵を返したが、そんな彼女を引き留めるように、
「こちらへ」
「祈りを捧げよ」
声が、またドーラの中で響いた。
「…………」
匣に呼ばれていると直感が告げ、恐る恐る今よりも明るい所を目指してまた歩を進めると、大きな四角い物体とソレを覗き込んでいる何者かを視界に捉(とら)えた。
よく見えないが、物体の側には蓋のようなモノもあり、ドーラの脳内で突然警鐘が鳴る。
幼い頃に聞いた話では、救済の匣には希望が入っており、その希望を取り出すためには正しい手順を踏んで祈りを捧げる必要がある。
もし間違えれば、たちまち絶望が溢れ出して世界は災厄に飲み込まれる──それを思い出して、ドーラの喉からひゅっと音が漏れた。
(ああ、ハコがあいてる……もしかして、アレは絶望なんじゃ……)
気付くと、ドーラは駆け出していた。
❖
匣の中に押し込めるように突き飛ばした少年を〝絶望〟と称するには余りにも美しく、一瞬戸惑ったようにドーラは動きを止めるが、首を横に振って側にあった蓋を手にした。
見た目は石のようで重量がありそうだが、意外とあっさり持ち上げる事が出来て安堵しながら蓋を被せる。
一方、何が起きたか解らない少年は暗闇の中でぽかんとしていたが、
ズズ、ズズズ……
底から、音が這ってくる。
「……!」
状況を把握する前に少年は音に飲み込まれてしまった。
「ま、間に合った……?」
ガタガタと内側から物音がしたがそれはすぐに止み、辺りは再び静寂に包まれる。
しかし次の瞬間、ひとりでに蓋が動き、隙間からどす黒い泥水のようなものが明確な意思を持ってドーラの腕に絡みついた。
「ひっ、なにこれ……!」
自身を中に引き摺り込もうとしているのだと察して、剥がそうとするがびくともせず、腕が匣の中へ飲み込まれていく。
「や、やめ……! 誰かたすけ、ぁ」
泥は口から体内へ侵入し、気道を塞がれたことで呼吸が出来ず沼で溺れているような心地で喉を掻きむしる。
「あ゛、……ぐ、ッ……!!」
声にならない叫びを上げながら、不意にドーラの脳裏にある光景が映し出された。
ドーラが神に強く祈った夜、流星が精霊の森に落ちた。
ソレは人の形をしている。
『汝、次の希望足りえるならば、匣へ』
『還っておいで』
『希望』
見下ろし、慈しむようにソレの名を囁いた黒衣の男は。
ドーラに匣の噂を吹き込み、数日旅をしたあの青年だった。
(間違えちゃった、なぁ……)
意識が遠退いていく中、ドーラは理解した。
〝絶望〟と勘違いして閉じ込めた少年こそが、ドーラの求めていた希望だったのだと。
ぬるりと、体内を這う泥に心臓を掴まれ、肌が粟立つような悍ましさと共に絶望がドーラの胸の内に広がっていく。
(……ごめん、ごめんなさい……みんな……)
後悔したところでもう遅いが、それでも謝らずにはいられなかった。
泥は体内から赤黒く濁ってしまった彼女の魂を絡め取り、匣の中に蒐集していく。
「ドーラ!」
彼女を呼ぶブラムの声が聞こえたが、応える前にドーラは事切れてしまい、地面に崩れ落ちた。
ブラムは焦ったように駆け寄って胸に耳を当てたが心音は聞こえず、
「間に合わなかった、のか……」
しんと静まり返った匣の前で、冷えていく彼女の身体を抱き締め、項垂れた。
それからどれだけ時間が経ったか。
月と入れ替わりで陽が昇り始め、目覚めた小鳥たちが囀る。
吸血鬼であるブラムは長時間、陽の光を浴びることが出来ない種だが、次第に肌が焼け爛れていくのも構わず彼はドーラと共にいた。
やがて、彼の身体は朝焼けに焼き尽くされ、灰になって消えてしまった。
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