一章

1/1
前へ
/6ページ
次へ

一章

 朝の冷気に混じる新緑と土の匂い。  微かに聞こえるノイズのようなものは恐らく水の音だろう。  森と思しき場所で目を覚ました少年は緩慢(かんまん)と身体を起こすと、木漏れ日の眩しさに目を細め、(てのひら)で小さな陰を作った。 「…………」  此処(ここ)はどこなのだろうと周囲を見渡すが、見覚えのあるものは何一つない。  それどころか、名前、年齢、家族構成、出身、此処で目を覚ますまでの経緯──自身を形作るモノが思い出せず、空っぽの少年はそれを埋める何かを求めるように立ち上がろうとして前のめりに倒れた。 「……、……?」  下半身に違和感を覚え視線を向けると、腰から足先にかけて少年の髪色と同じ白金色(しろがねいろ)の鱗で覆われた尾ひれになっていた。  自身が何者であるのか(わか)らない少年だが、少なくとも魚人族ではなかった気がする。  仮に、この姿が少年の正体なのだとして、いま二本の足が無くてはどこにも行けず困る少年は再度、身体を起こしながらどうしたものかと首を傾げたとき、小さな声が耳に届いた。 「…………」  振り返った先には、海のように広がって群生(ぐんせい)している白い花。  その上で淡いピンク色の光が楽しそうに跳ねており、少年は尾ひれをくねらせるように動かしながら柔らかな土の上を這い、光へ向かってゆっくり進んでいく。  その様子を先程から太い枝に止まって静観している(ふくろう)は、異国の噂で度々(たびたび)現れる蛇神(へびがみ)のようだと首を回したが、次の瞬間、ふっと少年の姿が見えなくなると興味を無くしたように飛び去ってしまった。  それに気付いていない少年は、花の海に近付いていくにつれ肺に溜まる甘ったるい香りの影響でか、ぐらりと目が回る感覚に堪えてどうにか辿り着くと、ピンクの花をドレスに見立てて(まと)う小さな生き物──この森ではいたずら好きで知られている妖精が踊り、(ある)いは歌っていた。 「…………」  ──たのしそう、なにをしているの。  口を開くが空気だけが微かに漏れ出るだけで、声が出ないことに不思議そうな表情で自身の喉元を撫でた(のち)、もう一度口を開いてみる。  魚のようにぱくぱくと唇が動くだけでやはり声は出ず、どうすれば自分の存在に気付いてもらえるだろうかと視線を伏せて思案した少年は、尾ひれを持ち上げて軽く地面を叩いた。  その衝撃で花が揺れ、少年に気付いた妖精たちは(またた)く間に彼を取り囲うようにして舞いながらくすくすと笑い声を(こぼ)す。 「あら、まぁ。ようやくお目覚めかしら!」 「待ちくたびれた、待ちくたびれたわ!」 「さぁほら、目覚めたならわたしたちと遊びましょう!」 「宝探しはお好き? この先の泉に大事なモノを隠したの」 「見つけるまでは進めないわ」  くすくす、くすくす。  矢継ぎ早に告げられて困惑する少年をよそに、妖精たちは薄い花びらを撫でながら花の海の向こう、泉の方へ飛んでいく。  体勢上、花を()けていくことが出来ない少年はほんの少し申し訳ない気持ちになりながら尾ひれで薙ぎ倒し、這いながら慌てて妖精たちのあとを追った。  泉の前へ辿り着いた頃にはすっかり息が上がってしまい、肩を上下させながら泉の中を覗き込んだ少年は、(よど)みのない清らかな水の美しさに息を呑んだ。  水面には疲労の色を浮かべた少年の顔が映っているが、ソレには何の興味も示さず、ただ喉の渇きを癒そうと両手で水を(すく)い口元へ運ぶ。  ひんやりと冷たい水が喉を通ると、全身に染み渡り、一気に生き返ったように少年は息吐(いきつ)いてまた一口含んだとき、水底で星のように輝く何かに気付いて身を乗り出した。 「……!」  バランスを崩した、(いな)、何かに背を押されて泉の中へ落ちてしまった少年は慌てて水面へ浮上しようと試みるが、藻掻(もが)けば藻掻くほど泳ぎ方を知らないからか下へ沈んでいく。  そのうち、咄嗟(とっさ)に固く閉ざしていた口も限界に達して開いてしまい、そこから流れ込む水を飲み込みながらもうだめかと思われたが、 「……?」  不思議なことに水中でも難無(なんな)く呼吸が出来ることに、はて?と少年は首を傾げた。  それに、腕だけではどれだけ動かしても上手く移動することは出来なかったが、視界の端を横切った小魚を真似て尾ひれを動かしてみると、面白いほど早く泳げる。  溺死(できし)という最悪の事態は免れた少年は、水底を見下ろし、陽光で輝く何かを探した。  そんなに大きい泉ではないが、それなりの深さがあり、底へ近付くにつれて辺りは蒼暗(あおぐら)くなっていく。  それでも目印のように時折きらりと輝くソレへ向けて手を伸ばすと、滑らかな木の感触をしたモノに指先が触れた。  水中ではぼんやりとしか見えないが、輪郭(りんかく)をなぞるように撫でてみると人の形をしている気がしなくもない。  一先ず地上へ持っていこうと、そっと両手でソレを掴んで水面まで上がっていくと、右目部分にガラス玉がはめられた、今の少年の姿を()した木製の人形だった。  二人の妖精が少年の傍へ来て囁く。 「この人形、あなたにそっくり」 「よく見て。綺麗な瞳が一つだけ。もう一つはどこかしら?」  もう一つ、左目と(おぼ)しき所にくぼみがあるその人形を見つめた後、まだ宝探しは終わっていないことを察して草の上へ這い上がる。  そんな少年の背に、妖精たちは問い掛けた。 「ねぇ、あなた。本当は何を探しているの?」 「あなたの宝物は一体なぁに?」  何をと()かれても、何も覚えていない少年には答えることは出来ない。  この森を抜け出す方法?  抜け出せたとして、何処(どこ)へ行けばいいのか。  そもそも、何故こんなところにいるのか。  自分は誰なのか。  まずは記憶を──そうすればおのずと自分が誰なのかも解決するのではないかと、漠然(ばくぜん)とした思考をする少年は、宝物を探してまた這うように先へ進んだ。  進み始めて、数十分経っただろうか。 「…………」  見覚えのある大木の前で止まった少年は、何度も同じ場所をぐるぐると回っていることに気付いて妖精の姿を探すが、(うた)うような囁き声だけが森に響くだけだった。 「ねぇ知ってる? かみさまの宝物」 「知ってるわ! ソレにはキボウが入っているんでしょう?」  くすくす、くすくす。 「ところでキボウって何かしら?」 「やぁね、わたしたちの花のことよ」  キボウ。  それが何かはやはり解らないが、何故か惹かれる響きで、少年は妖精たちの会話に聞き耳を立てた。 「きらきら、綺麗なものね!」 「そうそう、あとは祈りかもしれないわ」 「まぁ、それは誰の祈りかしら?」 「きっとこの世界みんなの祈りよ」  みんなの祈りもキボウなのだとしたら随分と壮大で、少年に以前の記憶があったとしても恐らく理解の及ばないものだろう。  進むことを忘れて思索(しさく)(ふけ)る少年の様子を、花に興味を示したと勘違いしたのか、妖精の一人が肩にちょこんと座った。 「気になる? 気になる? わたしたちの花のこと」  花というよりはキボウについて知りたい少年だったが、声が出せない彼にはそれを伝える(すべ)がなく、しかし何かヒントを得られるのではないかと一先ず妖精の問いには頷いておくと、妖精は嬉しそうに口角を上げた。 「あなた、花言葉はご存知?」 「……?」 「まぁ、知らないのね。白い花も、わたしたちのドレスも、みんなアネモネなのよ」 「…………」  アネモネ、それが花の名称なのだろうと直ぐに理解し、続きを促すように彼女を横目に見た。 「花にはそれぞれ、人間があとからつけた意味や価値があって、それを花言葉と呼ぶの。アネモネの花言葉はキボウなんですって」 「…………」 「ええ、キボウがなにか知りたい? だったらもう一つの宝物を見つけてちょうだい」  妖精はふわりと少年の肩から飛び立つと、目を(つむ)って十数えるように言い、そのまま頭上へと飛んで行った。 「…………」  数えろと言われても声が出せない少年は、頭の中で静かに数え、目を開くと、 「さぁ、宝物を持っているのはだぁれ?」  潜んでいた沢山の妖精たちが、揶揄(からか)うように笑いながら少年の頭上を飛んでいた。  少年は一人一人じっくり妖精たちを観察するように見遣(みや)ると、ややあって首を横に振る。  ここに宝物を持った妖精はいない。  それが少年の答えのようだ。  絶対に言い当てられない自信があった妖精たちは、口々に残念そうな声を漏らし、途端に飽きたようでさっさと茂みに隠していたらしいガラス玉を手渡した。 「もう、どうしてわかっちゃったのかしら」  それは少年にも解らず、何の反応も返せずにいると、察した妖精はむくれながらも少年が持っていた人形のくぼみを指差した。 「ほら、ここ。ぴったりはまりそうでしょう?」  言われた通り、渡されたガラス玉をくぼみに押し当ててみるとあるべき場所に収まるようにぴったりとはまり、人形の中から何かが飛び出してきたかと思うと、尾ひれの下半身を押し出す形で二本の足が突如生えて来た。  それと同時に少年の尾ひれも(またた)()に割けて人間の足に変わり、何が起きたのかと目を見開いた様子には満足したようで、妖精は上機嫌で囁いた。 「わたしたちとの宝探しはおしまい。もう行っていいわ」 「あなたの宝物を探しに行ってらっしゃい」  白い霧のようなもので視界を覆われた少年は、結局キボウとは何なのかと妖精へ手を伸ばしたが、次の瞬間には森の入口、或いは出口と思しき所に立っていた。  細工が施されていた人形は妖精たちが持って行ったのか、手の中から消え、あの甘ったるい花の匂いもいつの間にかしなくなっている。  夢を見ていたのだろうかと首を傾げたが、恐らく別れ際に被せられた白い花の冠が、彼女たちの存在や先程までの出来事が夢でなかったことを知らしめる。  一度崩してしまわないようそっと花冠に触れたあと、もう何の気配もしない森を振り返ることなく立ち上がった少年は、眼前に広がる白亜(はくあ)の遺跡へ足を向けた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加