踊り子

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 そっかぁ、と、軽い口調で言った茉莉花は、その後ぽろりと涙を流した。右の目からひとつ、左の目からひとつ。  紘一は、彼女の涙の唐突さに驚いて、身じろぎ一つできなかった。  「悲しいわけじゃないのよ。そういうのは、もう慣れた。だから私、嬉しいのね。」  自分で自分に言い聞かせるみたいに茉莉花が言う。  「自分は不運だってずっと思ってたし、これまで確かにそうだったのよ。でも、お兄さんがそう言うなら、信じてみようかしら。これからは、って。」  うん、と、紘一は頷いた。それ以上の言葉が探せなかった。不運だったという彼女の過去について、多くを知っているわけでもないのだ。  茉莉花は紘一の顔をじっと見て、忘れない、と言った。  「私、お兄さんのこと、ずっと忘れない。」  その言葉で、彼女が去っていくつもりだと分かった。どこか遠くへ、紘一がもう、眺めることすらかなわない場所へ。  「どこに?」  紘一は、焦ってそう口走った。彼女には、答える筋合いなんかないと分かっているのに。  「どこにでも。もうすぐ夜が明ける。一番の電車で行くわ。」  彼女は涙を指先でそっと拭った。  「荷物なんかないし、どこに行ったって踊り子で稼げる。私は幸運に恵まれるんだから、どこに行ったって怖くないわ。」  行かないでくれ、と、言いかけた。この部屋にいてほしい。金なら自分が稼ぐ。踊りたいならあのバーで踊ればいい。この部屋にいてほしい。  でも、言えなかった。彼女は行くのだ。羽根があるのに飛ぶなとは言えない。  ビールの空き缶をテーブルに置いた茉莉花が、テーブル越しに身を乗り出した。紘一は動けなかったけれど、彼女の冷たい唇を受け止めることはできた。もしかしたら、微かに震えていたかもしれないけれど。  彼女の意図が知りたくて、大きな猫目を覗きこむ。彼女は、いたずらっぽくにこりと笑った。彼女みたいに千里眼でない紘一には、彼女の心の内は当然読めない。彼女はすらりと立ちあがると、大股で部屋を横切り、紘一の背後にある窓のカーテンを開けた。彼女の言う通りだ。もうすぐ、夜が明ける。遠くの空はうっすらと白く染まり始めていた。  「じゃあ、行くわね。ビール、ごちそうさま。」  それだけ言い置いて、彼女はそのまま部屋を出て行った。紘一は、じっとその場に座っていた。彼女を追うなんて選択肢は脳裏に過ぎりもしなかった。玄関まで見送るとか。そんなこともできはしない。ただ、一陣の風みたいに吹き去っていった彼女の面影を、じっと瞼の裏に焼き付けるために、両目を閉じた。
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