おかえりの部屋

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物件を見に来たら予想以上に理想的な部屋だった。 「二階の角部屋で日当たりが良くて、それでこの値段?この部屋が?」 僕が不審になるのを待ち受けたかのように、不動産屋の男性職員が メガネに指をかけて切れ長の目を曇らせた。 それとは裏腹の晴天で、午後の日差しが窓の無い部屋に入り込んでいる。 「ここは、ですね。虫が出るのが、ちょっとした問題でして。 しかし、そこを気にしなければ快適な物件なんです」 「虫?虫は苦手です!無理無理、この部屋はやめておきます。 うーん、候補の部屋は、ここで最後ですよね」 「あ、いえ、あなたが想像したような虫ではなく、 もっと不可思議な生き物なんです」 「はあ?」 「というのも、帰宅すると出迎えてくれる虫なんですよ。 住人が帰ってくると『おかえり』と、言ってくる。 その声の現象を『虫』と、呼んでいます」 「出かけるときは?言ってこないんですか?」 「住んだ人の証言によると、帰ったときのみだそうです」 「声で、おかえり、と?」 なにそれ不気味なんですけど」 「ですよね、しかし幽霊ではないんです。除霊も無理でした」 「こんなに綺麗な部屋で、そんなことが?」 僕は改めて部屋を見渡した。 木造だけど改築していて、ロフトがあるので天井が高くて開放的。 玄関からすぐにあるキッチンも広く、その左側がバスルームとトイレで 廊下の先が広いワンルーム、ロフトの下にクローゼットまで付いている。 間取りがスッキリしているのも良い。 「うーん、色々と見てきたけど、ここが一番なんだよなあ。 ワンルームって、風呂とトイレが一緒のユニットバスが多いけど、 ここは風呂とトイレが別なんて貴重だし。しかも他より広い。 大学から自転車で通えるうえに、駅からは徒歩で行ける」 そして家賃が安い、その理由が、虫......? 「虫だけ妥協して、いかがですか?」 夏も終わりかけなのに、職員さんはハンカチを取り出して汗をぬぐう。 ビシッとしたスーツがカッコイイけど、仕事って大変だなあとか思う。 僕も三年になれば就職活動が始まるわけで、その頃について考えても 駅から近い部屋には住むべきだ。 そうだ、過酷な東京生活において、社会人になったときが大事なんだ。 「ここに、します」 「本当ですか!」 職員に食い気味にこられた。 よほど部屋をどうにかしたいらしい。 僕は僕で、将来設計以外でも、早くどうにかしたい理由があった。 同棲していた彼女と別れることになった結果の、部屋探しだったのだ。
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