第3話 ウエルカムフルーツを慌てて作る

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「伊之瀬くん!?」  バランスが崩れる。パッドが傾く。  気付いた時にはもう遅い。中のパックが落ちる。蓋が取れる。中身の葡萄が散らばる。  そしてその上に――  くしゃ、と自分の腕や胸で幾つかの粒が壊れたのを感じた。  さっと血の気が引く。  白い制服の上着に赤紫の染みが。  同時に、絨毯の所々にも。  うわうわうわうわ。  どうしようどうしようどうしよう。  混乱している。駄目だ駄目だ。何とか考えなくては。  葡萄の換え。――それはいい。元々多めに用意してある。落ちただけで中身は大丈夫なものが大半。パックを換えればいいだけだ。  だがこの染み。どうしよう。自分はまだいい。着替えはあったはず。けど絨毯は。  とりあえず、膝をついたまま、そっと潰れた果実を取り除ける。  白い布手袋がすっと赤紫に染まる。目にも鮮やかな、綺麗な綺麗な色。  そのコントラストは子供の頃の記憶を思い起こさせる。昔むかし、母さんは俺や父さんが葡萄を食べるたび、Tシャツの染みに困っていたものだ。言われなくなって久しい、懐かしい記憶。  スタッフは慌てて近寄り、無事な分をかき集めた。パック自体に問題が無いものを選んで、手早くその場にセットする。  そして厳しい視線で俺の方を見ると。 「あーあ…… 伊之瀬くん、そのまま潰れた分、ともかく回収しておいてくれよ。ああもう、このクソ忙しいのに、染み抜きもせんといかんのか!」  忌々しそうにスタッフは吐き捨てた。そして俺の持ってきたパッドを持ち、次の部屋へと移動して行く。  言葉が重い体にひどく響いた。使い物にならない奴め、と言われた気分だった。  判ってる。今の俺は大して使い物になんてならない。身体が怠い。でも考えなくては。今できることは何だ?  ともかく拾う。潰れた実、皮、種まで出ているものもある。どうしようどうしよう。ぐるぐると俺の中で、考えが再び回り出した。  その時ぽん、と肩に手が置かれた。 「大丈夫だ」  耳元に低く響く声。慌てて俺は振り向いた。 「東条さん!?」  「ただの染みだ」  大きな掌が肩に置かれる。それだけで体中に暖かなエネルギーが流れ込んで来る様な気がした。 「東条さん、どうしてここに」  そこ、と扉の外を彼は親指で示す。 「自販機室の電球を取り替えていた」  頭の中がぼんやりとする。それがどういう意味か、すぐに思い出せない。  彼は俺の様子がおかしいことに気付いたのか、屈み込み、両肩に手を置くと、真っ直ぐこちらに視線を向けた。その先は―― 俺の制服。じっと見つめると、彼はつぶやいた。 「綺麗な色だ」  冗談言っている場合じゃない、と俺は思わず眉を寄せる。東条は構わず、そのまま絨毯へと視線を移して行く。 「この位なら大丈夫だ」 「え、でもこんなに濃いんですよ」  自分の制服。そして絨毯の複雑な、だが規則的な模様。濃い所には更に濃く、白い部分には鮮やかな色が付いている。 「ちょっとやそっとじゃ取れない……」 「そうでも無い」  つぶれた部分と制服と絨毯を彼は交互に見る。 「そこを動くな」  彼はつ、と立ち上がった。そして三分も経たない間に、手に漂白剤のボトル、歯ブラシ、消毒用エタノール、それにタオルを持って戻ってきた。 「立てるか?」  言われて立ち上がる。ふらつく。だが何とかなりそうだった。はい、と答える。 「来い」  東条は一度廊下に出る様に俺をうながした。そして廊下の突き当たりにあるリネン庫・兼・掃除道具置場まで連れて行く。そして俺にこう言った。 「そこのコップに水を入れてくれ」  計量カップが流しに吊されていた。俺はそれに水を汲み、彼は掃除機を持ち出し、部屋へ戻った。 「染みの上に少しずつ掛けるんだ」  俺は言われるままに絨毯の染みになってしまったところに少しずつ垂らす。 「これでいいですか?」 「うん。その上にタオルを乗せて」  彼は慣れた調子で掃除機をコンセントに差し込む。 「押さえておいてくれ」  え、と思ったが、俺は言われる通りにした。  東条は掃除機のスイッチを入れ、タオルの上に乗せる。スイッチオン。慌てて俺は力を込める。さっ、と背中に冷や汗が流れるのが判る。 「さてどうかな」  そっと俺はタオルを外してみる。あ、と思わず声を立てる。 「取れてる……」 「ああ、ワインと同じ要領で正解だな」  つぶやくと彼は次、と続きを促した。  一通り絨毯の染みに掃除機を掛け終わった後、それでもやや目立つ所には酸素系漂白剤を軽くつけて叩く。  その上で更に匂いが残らない様、消毒用エタノールをスプレーする。 「凄い! 消えた!」 「かなりきつい臭いでも、こいつは結構消してくれる」  はあ、と俺は感心した。ほっとした。泣きたいくらいだった。いや何か、瞼が熱くなっているのが判る。 「スタッフにこれでいいか聞いてみればいい。俺はそろそろ行く」  待って、とふと彼に向かって手が伸びた。立ち上がろうとして―― くらり、と視界が回った。 「危ない!」  大きな手が俺を支えた。また、胸の奥で何かが跳ねた。だが今度はなかなかそれが止まらない。  東条は制服と俺の顔の間に視線を幾度か往復させると、低い声で「泣くな」と囁いた。  そのまま強い力で引き寄せられ、顔が近付く。  抱きしめられている、キスされていると気付いたのは、彼の舌が俺のそれを深く深く味わい尽くした頃だった。  どのくらいそうしていただろう。ぼぉっとしている俺の両肩をしっかりと掴むと、真正面から視線を合わせた。  そしてまたひどく生真面目な口調で。 「体調が悪い時には無理はしないものだ」  そう言い捨てると、来た時同様、音もさせずに去って行った。  やがて戻ってきたスタッフが、綺麗になっている絨毯に驚いた。だがその言葉の半分も半ば呆然としている俺の耳には届かなかった。
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