追い込まれる『神童』

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追い込まれる『神童』

 カタン、と小さな音を立ててタッチペンが床に落ちた。  専用研究室兼個室(コンパートメント)の一面を埋め尽くす大きなモニターには、そのペンで記されたメモや複雑な数式が所狭しと描かれている。 「……!」  再びペンを拾い上げたヨシノの白く細い指先が細かく震えている。首に掛かったシルバーのチェーンがチャラリと冷たい音を立てる。  見上げた時計の数字は、基準消灯時刻の2分前だった。 「せめて、せめてあと15分あれば形になるのに」  動揺する心を何とか鎮める。  課題を完了させるか、それとも消灯時間を守るべきか。選択肢は2つにひとつ。    「仕方ない、とりあえず消灯させよう。明日朝7時に1回で最適解(エクセレント)を出せばいいんだから。それより『タイムオーバー』と判定される方がダメ」  白地に金の刺繍が施された立派な制服は将来を約束された全寮生憧れの象徴。それを急いでルームウェアに着替えつつ、同時にモニターに記した文字の羅列を記憶していく。  腰まで届くブロンドの髪にブラシを入れる余裕もなく、そのまま慌てて照明のスイッチを落とした。  後はベッドコーナーにほんのりと灯る常夜灯だけが光の全て。 「落ち着いて、私。落ち着くの。まだ……まだそこまで私はしていない」  シーツの裾を握りしめながら必死になって自分に言い聞かせる。  自らに訪れた『異変』に気付いたのは1週間前だった。『少し手こずるだろうが何とかなるだろう』と安易に考えていた課題に、ほんの少しだけ迷いを感じたのだ。  こんなことは今まで一度もなかった。2年前に15歳という若さで『論理学史上きっての天才』と謳わて『神童養成クラス』に抜擢された頃は、一度構築した理論に後から迷いが出ることなんてありえなかった。あらゆる角度からの検討が完璧にできていた。  『能力劣化』。  政府やスクールはひた隠しにしているが、時として神童と認定された者が陥るこの症状はここ数年目立つようになってきている。  だが将来に政府中枢や科学や芸術、スポーツなどの各分野で世界をリードする存在となるべきエリートに劣化は許されるものではない。  だから劣化が始まると『固定化』されるのだ。劣化が進行しないよう、薬物を使って。  確かにこれで劣化は止まるがこれにもデメリットがある。『人格が変わってしまう』という恐ろしい副作用が。強力なその薬物はその人間の性格を一から作り直してしまう。のだ。   それはもはや自分という個性の死に等しい。 「やだ……固定化だけは絶対に嫌だ……」  両目から溢れる涙を拭う暇もなく、さっき覚えたモニターのメモを必死に思い出す。そしてシーツを頭から被って眠るふりをしながら、頭の中で最後の回答へと導いていく。  それから1時間ほどしてから、やっとヨシノは頭を枕に預けて両目をゆっくりと閉じた。
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