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トリオクロンの朝は高い城壁を太陽が越える前に始まっている。薄暗い中、一つまたは一つと松明が灯されて、働き者の住民たちが動き出す。山肌に作られた城は朝靄に包まれていた。
トリオクロン内には商店も軒を連ね、店主たちは朝から品物仕込みに余念がない。あちらこちりから煙が上がり、朝靄に美味しい香りを付けていた。
「ダダル早く早く」
「もしもまだ火が灯されてなかったら諦めてくれよ」
「もぉ、わかってるわ」
エリッタはいつもより一時間ほど早くダダルの家へとやってきた。エリッタの家は最上部の一角にあり、そこはエリッタしか住んでいない。他は空き部屋となって久しいが、住民たちの手で常に手入れが行き届いている。崖に沿って住居があるので段々と下りていく形で家があり、崖の中腹辺りにダダルの家があった。
「私、お祝いにライラックのドライフラワーを持ってきたの。本当はもっと実用的なものの方がいいと思った──」
「まだ寝ているうちもあるだろうから、静かに」
エリッタはダダルに注意されて、目を丸くする。崖から下を臨めばどの家も目覚めて動き出しているのが感じ取れた。窓の戸を開けるもの、庭で鶏に餌をやるもの、皆、起きている。
「起きてるわよ」
「ああ。単刀直入に言えばエリッタはうるさいから声の大きさを注意しろという意味だ」
口を噤んだエリッタはその口をへの字に曲げていた。ダダルはエリッタの不満も物ともせず澄ました顔で羊飼いのルタの質素な家の前に立った。
「中から声がしているから起きて──」
言い終わらないうちにエリッタがドアをノックした。
「ルタ! おはようございます」
ダダルは首を左右に振りながら、エリッタのために一歩引いて場所を譲った。ドアが直ぐに開き、中から隈の出来た顔でルタが出てきた。
「やぁ、エリッタ」
「おはよう! 赤ちゃんを見せてもらえる?」
ルタは戸を開けたまま中へと誘う。嬉々として家へと入ったエリッタをダダルが追う。
「エリザ、おめでとう! あのこれ、ドライフラワーなの。良かったらどうぞ」
ルタとエリザは若い夫婦だった。四年前に結婚して二人目の子をこの度授かった。エリザもまた子育ての疲れから隈ができているが、ライラックのドライフラワーの礼を言いながら座っていた椅子から立ち上がった。
「ああ、座っていて。ちょっとだけ赤ちゃんのお顔を見せてもらったら私たちは行くから。ほら、学校もあるしね」
言いながらエリッタはエリザの胸の中に居る小さな赤ちゃんを覗き込んだ。
「ぷにぷにだわ。なんて可愛いのかしら」
熱心に角度を変えて覗くエリッタにエリザが吹き出し「抱っこしますか?」と聞いた。するとそれまで顔が赤ちゃんに付きそうなくらい食らいついていたエリッタが、後ろに飛び退いた。
「ダメよ、ダメ! 私っておっちょこちょいだもの」
その時、皆の前で赤ちゃんが可愛い口であくびをした。
「わぁ、あくびをしてるわ。あなたったら一人前ね。しかも四人に見られているのにリラックスしていて素晴らしい精神力よ。大物になる予感しかないわ」
「エリッタ」
ほうっておくといつまでも独り言のような賛辞を述べ続けそうなので、ダダルがエリッタに声をかけた。
「二人共子育て中で疲れているのだから、もう行こう」
「あ、そうね。可愛らしい赤ちゃんを見せてくれてありがとう。この先もあなた達家族が幸せでありますように」
一応別れの挨拶をしつつ、エリッタの顔は再び赤ちゃんの方へと吸い寄せられていく。見かねたダダルに首根っこを掴まれ「行くぞ」と引っ張られた。
「あの、今度リンゴを取るから持ってくるわね。ああ、もう! 引っ張らないでってば」
軽く頭を下げたダダルにルタは笑ってドアを閉めた。
「いつも元気な人だわ、エリッタは」
エリザは赤ちゃんをそっと揺らしながら呟いた。
「ああ、皆から好かれているのも納得だろ?」
そうね。と、答えてから、まばたきをして続ける。
「本当はエリッタも赤ちゃんを産んだりしたいのかもね」
「──エリザ、それはトリオクロンのタブーに触れるおそれがあるから……」
「ただの感想よ。私があなたに嫁いで四年。外からやってきた私を迎えてくれたエリッタは、今と何も変わらないわ。エリッタより幼かったダダルは四年分しっかり成長して大人になってきているのに──」
ルタはそっとエリザの口を人差し指で押した。
「いいかい。それはもうタブーだ。言ってはいけない。エリッタはエリッタなんだ。それでいいじゃないか」
ルタの顔を見たエリザが暫くルタを見上げて見つめ、最後に頷いた。
「ええ。ちょっと気の毒な気持ちになってしまったの。これは言わない約束だったわ。結婚した時に誓ったもの」
「不思議に思う気持ちはわかるんだ。ただ、俺もずっと親から固く言い聞かされてきたから。守るべき秘密を守っていればこの地は幸せで満たされるとね」
エリザは「確かに幸せだわ。そうね。エリッタも幸せだと思えているなら、何も言うべきではないわね」と夫に同意してみせるのだった。
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