滴るもの

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滴るもの

 朝からどんよりと曇って肌寒い日だった。寒さに耐えかねた枯れ葉がひらりひらりと落ちていく。夜には少し早い時刻だが、すっぽり隠れた太陽から日が届かなくて薄暗かった。 「リンゴのパイ美味しかったでしょう?」  隣を歩くエリッタからの問いにダダルが顔をエリッタへと向けた。赤い頬がそれこそりんごのようだ。 「寒いんじゃないか?」  エリッタがついたため息は白い靄になってから消えていく。 「あのね。質問に答えてから質問してくれない? もう、寒くないわよ! たった今、体温がムカッと上がったもの」  わざと足を踏み鳴らしながら歩くエリッタから、ダダルの興味は近づいてきたトリオクロンの下ろされた跳ね橋の奥、門の辺りに移っていた。  見たことのない女性は生まれたばかりの子を胸に抱いているようだ。  ダダルは眉間に皺を寄せて「構うなよ」とエリッタに注意を促す。エリッタもおおよその空気を読んで「わかってるわよ」と口を尖らせる。  それまで賑やかだったエリッタの口は閉ざされ、半歩先を歩くダダルに大人しくついていった。 「お願いです! 人づてに聞いたのです。どんな病も治してくださる神のような御方がいると。診ていただきたいのです……この子を」  近づくに連れ女性の必死な叫びがハッキリと聞き取れるようになっていく。泣きたいのか怒りたいのか、もしくは叫びだしたいのか、空気を切り裂くような悲しい訴えだった。 「そんな人はおらん。悪いことは言わない。日が沈む前に帰られよ」 「診てもらわねば帰れません」 「そんなもの()らぬといっておるだろ」  尚も続く押し問答の中、女性の横をダダルが通ろうとした。すると女性がダダルの服を掴んで止めた。 「お願いします。私も中に入れて!」  ダダルは掴まれた所を見下ろして、女性の手を取った。 「王都イラボリーになら高名な医師がいる。そちらに行くといいでしょう。今なら日が暮れる前になんとか辿り着くはずだ」  ダダルが足止めをくったので、エリッタも足を止めていた。エリッタの目は女性に抱かれた生まれて半年も経っていないであろう子供に向けられていた。赤ん坊なのに肌に艶がなく、生気がほとんど感じられない。 「行くぞ。門を開けてくれ!」  女性の手を離すとダダルは門番に声をかけ、木で出来た巨大な扉が開かれた。 「人でなし! 助けてくれてもいいじゃない……どうしてなの、どうして──」  女性の叫びにエリッタが振り返りそうになると、気配で察知したダダルがエリッタの手を掴んだ。 「行こう。振り返るな」 「ええ、でも──雨が降りそうだし」 「ダメだ。例外はない」  無慈悲な言葉と共鳴するように、エリッタ達の背後で門が閉じられた。その後は跳ね橋が上げられ、絶対に翌日まで何人もトリオクロンに入ることはできない。それがここの規則だった。 「赤ちゃんだったわ」  沈んだ声でエリッタが言い、ダダルは「どのみち助からない」と答えた。 「わかっているけど、悲しいわ」  ダダルはエリッタの手を離さず歩いていく。 「生まれた時からきっと病を抱えていたのだろう。赤ん坊の命を救うことはできない。生まれてからかかった病ならまだ治る可能性はあるが、生まれ持ったものはムリだ」  そうかしらと諦め悪く呟いたエリッタに、ダダルはそうだと揺るぎなく答えた。珍しくエリッタはダダルの手を握り返していた。 「時々、無力感に苛まれる。こんなのって、まるで悪魔のようだわ」  しばらく黙ってエリッタの部屋まで続く階段を上がっていたダダルが急に口を開いた。 「エリッタのリンゴのパイ。母がとても気に入っていた。絶品だそうだ」 「……なんで今言うのよ。聞いた時には答えなかった癖に」  元気はないがいつも通りエリッタは文句をつける。 「いつ答えてもいいだろ」 「まぁ、そうかもね。聞けて良かったわ」  覇気のない声で返すエリッタ。ダダルは顔を上に向け、エリッタの部屋の窓を見上げた。 「俺もエリッタのパイは美味しいと思ってる」  エリッタも顔を上げて「そうだったんだ。もっと早く言ってよ」と声に張りが戻ってくる。 「果物のパイはな。時々、独創的な鰻が丸々入ったパイとか作るだろ? あれはちょっとな……」  前に一度作って大不評だった鰻のパイだ。丸いパイの中にぐるぐると切らずに入れたら、翌日感想を言わないで済むように誰も彼もエリッタから逃げ回っていた。 「文句はその時言っ──」  そこまで言いかけたら、空から大粒の雨が落ちてきた。 「あ、降ってきた。さっきの二人、雨で──」  最後まで言わさないようにしたのか、それとも急いだのか。ダダルはエリッタの手を引いて階段を駆け上がり始める。引っ張られたらエリッタもそれに倣うしかない。  エリッタを部屋の前まで送り届けると、ダダルは上がってきた階段を駆け下りていった。雨で霞むその後姿を見つめながら「ダダルは気遣いができるようになったのね……大人になったなぁ」とエリッタは呟いていた。  その夜、降り続いた雨は翌朝には上がっていた。エリッタとダダルが登校するために門を出た時、あの女性の姿がないことにエリッタは胸を撫で下ろしていた。
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