最終話 まだ名前も知らない君へ

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最終話 まだ名前も知らない君へ

私はまた、彼にお礼を言いそびれてしまった。 毎朝、同じ時間に同じ電車に乗る。彼がいる車両、同じ窓際の席に座っている光景は、もう日常の一部になっていた。目が合うことなんて滅多にないし、声をかける勇気なんて、もうどれだけ時間が経ったって出ない。でも、一度あの「ありがとう」が言えなかったことを考えると、次こそは、次こそはと思ってしまうのだ。 今日こそは、きっと伝えるんだ――そう何度も誓ったはずだった。 あの日、スマホを拾ってくれた彼の「大丈夫?」という優しい声が今でも耳に残っている。思い出すたびに、心臓が跳ね上がる。あのときはただ頷くだけしかできなかった。緊張して、言葉が詰まって、結局「ありがとう」すら言えずじまいで。電車を降りるまで、ぼーっとしていたのも無理はない。私にとっては、それが人生のハイライトとも言える瞬間だったのだから。 でもその後も、私は声をかける勇気がなく、ただ時間が過ぎていった。 「今日は絶対にお礼を言う!」と気合いを入れても、電車に乗ると彼は相変わらずスマホをいじっている。どんな音楽を聴いているんだろう、どんなメッセージをやり取りしているんだろう、そんなことばかりが気になって、結局、声をかけるタイミングを逃してしまう。自分の無力さに、電車を降りるたびに肩を落とす日々が続いた。 そんなことが何日も続いていたある日、私はいつもと同じように彼を見つけた。今日は違う。私は決意していた。今日こそは、ちゃんとお礼を言うんだ、と。 電車がいつものホームに滑り込んでくる。私は自分に「大丈夫、できる」と言い聞かせながら、彼のいる車両へと乗り込んだ。彼の姿はいつも通り。窓際の席に座って、スマホを操作している。私は深呼吸をして、静かにその隣に立つ。 心臓が高鳴る。声を出そうとするけれど、喉が乾いて、言葉が出てこない。視線を上げて彼を見るけれど、彼はまだスマホを見ている。胸の奥で渦巻く焦燥感。もしかして今日も、また声をかけられないまま終わってしまうんじゃないか。そんな考えが頭をよぎる。 でも、今日は違うはずなんだ。今日こそは――。 「あの……」 そうだ、声を出したのは、私だった。……いや、違う。 「あの……」 もう一度、聞こえた。私じゃない、彼だった。 驚いて彼を見ると、彼が私を見つめていた。目が合った瞬間、私は何も言えなくなってしまった。慌てて視線を逸らしたい気持ちを抑えつつ、なんとか彼の顔を見る。 「ずっと気になってたんだけど、なかなか声をかけられなくて……」 まさかの展開に、頭が真っ白になる。彼が私に声をかけてくれている? 何かの間違いじゃないかと思ったけれど、彼の表情は真剣そのものだ。 「え……私に?」 「うん。前、ペットボトル落としちゃった時、君の足下まで車内を転がっていって、それを捨ててくれたことあったよね?本当はそのお礼を言いたかったんだけど、なんかタイミングが合わなくて……ずっと言えなかったんだ。ありがとう、」 確かに私の足にあたったペットボトルを捨てたことあったけど、それがまさか彼のだったの?そして、まさかまさかのお礼。私がお礼を言いたかったのに、彼の方から感謝されるなんて、完全に予想外だった。ドキドキして、どうしようもない。この流れで、私も言わなきゃ――。 「い、いえ、私の方こそ! あのときスマホ拾ってくれたり、絡まれてるところ助けてもらったり、本当に助かりました! ……その……」 そこで私は言葉に詰まる。何か大事なことを言い忘れている気がするけれど、思い出せない。彼は私をじっと見つめている。私はただ、頷くだけで精一杯だった。 しばらくの沈黙が続いたあと、彼はふっと笑って、再びスマホを操作し始めた。 私は、何も言えずに彼を見送った。 結局、名前も言いそびれたし、連絡先だって知らないまま。でも、なんとなく心の中が温かい。これで良かったんだ、そんな気がする。名前なんて、また会えばいいし、連絡先だって、また次に聞けばいい。 ただ、それがいつになるのかは、わからないけれど――。 ++++++++++ 学校に着いてからも、私はずっと夢見心地だった。教室に入ると、すぐに真由たちが寄ってきた。 「凜! 今日も何か進展あったの?」 真由はすでに私が毎日彼に声をかけようとしていることを知っていて、いつもその進捗を聞いてくる。 「いや、別に……」 と、私は軽くごまかそうとしたが、心の中では今日のことがどうしても抑えきれない。彼に話しかけてもらえたという事実が、私の中で大きすぎるのだ。 「えー、何かあったでしょ? 顔に書いてあるよ!」 真由は鋭い。私は結局、隠しきれずに今日の出来事を話してしまった。 「で、彼が話しかけてきたの!」 「えー! マジで!? それってすごいじゃん!」 クラスメイトたちもその話に飛びついてきた。いつもならからかわれるのが恥ずかしいと思うはずなのに、今日は違う。嬉しくて、何度もそのシーンを思い出してしまう。彼が私を見てくれたこと、私に話しかけてくれたこと。それだけで、今日の私は幸せいっぱいだ。 真由はにやにやしながら私を見つめている。 「凜、惚気てんじゃん」 「えっ、そうかな……」 私は顔が熱くなるのを感じたが、隠しきれない嬉しさで、ぽーっとしたまま英語の授業の準備を始める。 ++++++++++ 昼食の時間が終わりに近づくにつれて、私はまだ彼の言葉の余韻に浸っていた。まるで夢の中の出来事のようだった。「ありがとう」とか、そんな簡単な一言が、彼からのものだとこんなにも心を温かくしてくれるなんて、思ってもみなかった。 真由は、私がぽーっとしている様子を見てまたニヤニヤしながら声をかけてくる。 「凜、ほんとに嬉しそうだね。どうだった? 声かけられた瞬間、世界がスローモーションになったとか?」 「な、なんでわかるの!?」 私は驚いたように真由を見つめた。 「そりゃあ、わかるよ。あんたの顔がすべてを物語ってるもん。完全に恋する乙女の顔してる!」 真由はからかいながら笑った。周りのクラスメイトたちも、そのやり取りに耳を傾け、私をからかう声が飛び交う。 「ねえ、凜! 次はどんな作戦立てるの?」 「いよいよデートのお誘い? それとも手紙で告白とか?」 「いやいや、まずは名前聞かないとね! 凜、まだ彼の名前知らないんでしょ?」 「え、そうなの!? 名前も聞いてないのにあんなにドキドキしてたの?」 皆が一斉に私を取り囲み、笑い声が教室中に響き渡る。私はその場で赤面しながらも、否定することはできなかった。 「……うん、名前、まだ知らない……」 正直なところ、名前を聞きそびれたことを今更気にしても仕方がないと思っていた。彼と話せたこと、それだけでも大きな進歩だし、今日はそれで十分だと思っていたから。 しかし、真由は私の肩を軽く叩いてきた。 「まあまあ、焦らなくても大丈夫だって! これからだよ、凜。名前なんて、これから何度でも聞けるしさ!」 「そうだよ! あのスマホの拾い事件だって、一度じゃなくて何回も挑戦して、ようやく進展があったんだからさ!」 皆が次々と私を励ましてくれる。私が思っていたよりも、皆は私のことを応援してくれているんだと思うと、少しだけ安心感が湧いてきた。 「……そうだよね」 私は微笑んで、少しだけ自信を持つことができた。次に彼と会ったときは、ちゃんと名前を聞こう。今度こそ、名前も、連絡先も、すべてを知りたい。何度も失敗してきたけれど、これが私のラブストーリーの始まりなんだと信じて。 真由が嬉しそうに笑いながら言った。 「さぁ、次はどんな作戦? 今度はもう少しロマンチックなやつにしなよ!」 私は少し考えて、にやりと笑った。 「うーん……次は、もっとちゃんと彼に話しかけられるような作戦を考えようかな。失敗しないように!」 「そうだね!」 と、真由も大きく頷いてくれる。 その日は、彼との会話を何度も頭の中で繰り返しながら、私はクラスメイトたちのからかいを楽しんだ。からかわれることが、こんなに幸せだなんて思わなかった。彼と次に会ったとき、どんな話をしようか――そんなことを考えるだけで、私はもうすでにワクワクしていた。 ++++++++++ 朝の光が、優しいオレンジ色に駅のホームを包み込んでいた。少し肌寒い風が頬を撫でるけれど、日差しは柔らかく、少しずつ秋から冬へと変わりゆく季節の匂いが感じられる。遠くから聞こえる電車の音が近づいてくるのを、私はじっと待っていた。 これまではチャンスがあっても、何度もためらって、声をかけることができなかったけれど、今日は違う。 ホームに並ぶ学生たちの中、いろんな色の制服やカバンが揺れている。どこかで友達同士が笑い合う声、駅のアナウンスが淡々と響く音、そして、朝の清々しい空気が胸いっぱいに広がる。まさに青春そのものの景色だ。 遠くに見える電車のライトがゆっくりとこちらに近づいてきた。線路の上を滑るように走る電車の音は、私の心臓の鼓動と一緒に高鳴っていく。電車がホームに滑り込み、いつも通りの時間が流れているのに、今日は特別な一日になる気がした。 「今日こそ…」 私は心の中で静かに呟いた。朝の冷たい風に吹かれて、手が少しだけ冷たくなっている。彼の近くにいくチャンスがあれば、勇気を出して話しかけよう。そんな思いを胸に、電車に乗り込んだ。 彼は、私の少し離れた場所に座っていた。スマートフォンをいじっていて、私には気づいていない様子。 私は心の中で何度もそう繰り返した。そして意を決して、彼の近くへと歩いていく。いざ、目の前に立つと彼は顔を上げてイヤホンを外した。 「わ、私、凜…吉岡凜って言います!」 そう言った瞬間、自分でも驚くほど顔が熱くなっていた。なんでこんなに恥ずかしいの?ただ名前を伝えただけなのに、胸の奥がぐるぐると掻き乱されるような感覚が広がっていく。 目の前で彼が私を見つめていることが、さらにその恥ずかしさを倍増させた。電車の中の雑踏も、風が頬を撫でる冷たさも、一瞬で消えてしまったかのように感じる。彼の視線が私に向けられている、それだけで心臓がバクバクと音を立てて鳴り響いている。 こんなふうに名前を伝えるのって、普通のことだよね?でもどうして、まるで大告白でもしたかのような恥ずかしさなんだろう。目が合った彼の顔が、なんだかさらに遠く感じる。周りの人たちの視線も気になるし、足元がふらつきそうになるくらい、私の緊張はピークに達していた。 名前を言うだけで、どうしてこんなに自分が恥ずかしい気持ちになるんだろう?顔が火照って、言葉が詰まりそうで、まるで自分の名前を言ったことすら、すごい勇気が必要だったみたいに感じる。 彼が少し微笑んで、穏やかな声で答えた。 「凜ちゃんか。素敵な名前だね。」 彼の言葉を聞いて、また一層恥ずかしくなった。何か返さなきゃいけない、そう思うけれど、頭が真っ白で言葉が出てこない。名前を伝えるだけで、こんなにも照れるものなの?自分でもこんなに恥ずかしがっていることが信じられない。 「ちなみに俺は…」 彼が口を開きかけた瞬間、私の胸の中で「待ってましたー!」という気持ちが一気に湧き上がった。まさにその時をずっと待ち続けていたのだから。心臓がトクン、トクンと音を立てて、身体中が緊張でピンと張り詰める。 「今だ、今だ、今こそ!」と心の中で叫びながら、彼の口元に目が釘付けになる。ほんの一瞬だけど、その一瞬がやけに長く感じる。鼓動が早まる。期待と不安、興奮が入り混じって、まるで全身が次の瞬間を待ち望んでいるかのようだった。 彼の口から発せられる次の言葉が、私にとって特別なものになる気がしてならない。息を止めてその瞬間を待つ私。彼が少し照れくさそうに笑って、そして彼はゆっくりと口を開く。
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