給湯器「アパートの隣の部屋に引っ越してきた女の人との恋愛小説です」

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僕が今の賃貸アパートに引っ越してきたのは3年前である。 僕は医学部を卒業した後、千葉県の研修指定病院で2年研修した。 その後、藤沢市の藤沢北部病院に就職が決まり藤沢市に引っ越して来た。 どこのアパートを選ぶかは迷ったが図書館を使いたいため図書館に近い所にあって賃貸料も比較的、安い所ということで細井ハイツというアパートに決めた。 そして僕は生活し始めた。 月曜日から木曜日まで、四日、病院で勤務して金土日は図書館で小説を書いた。 最寄りの駅は湘南台駅で、ここは横浜市営地下鉄ブルーラインと、相鉄いずみ野線のターミナル駅で小田急線も通っていて交通の便は良かった。 まあまあ快適な生活を僕は送っていた。 そうこうしている内に、3年が経った。 3年経った、ある日のことである。 ピンポーン。 チャイムが鳴った。 「はーい」 僕は布団の中の入って寝ころんでいたが急いで玄関に向かった。 カチャリ。 僕が玄関の戸を開けると、そこには、この世のものとは思われないほどの美しい女性がニコニコと笑顔で立っていた。 「あ、あの。私、今日から、このアパートに住むことになった山本美津子と言います。部屋は102号室です。よろしく」 そう言って彼女は、ペコリと頭を下げた。 「あ、こ、こちらこそ、よろしく。僕は山野哲也といいます」 僕はへどもどして挨拶した。 「あ、あの。これ、つまらない物ですが・・・」 そう言って、彼女は、引っ越し挨拶の手土産として、鳩サブレーの箱を差し出した。 「あ、ありがとうございます」 僕は深く頭を下げ礼を言って鳩サブレーを受けとった。 僕は101号室なので102号室といえば僕の隣の部屋である。 僕は飛び上がらんばかりに嬉しかった。 なぜなら、あんな奇麗な人が、これから隣に住んでくれるのだから。 生活にハリが出るというものだ。 実際その日から僕の生活はハリが出た。 隣にきれいな美津子さんが居るということだけで嬉しかった。 彼女はどういう人なのだろう? 彼氏はいるのだろうか、結婚しているのだろうか、バツイチなのだろうか、と僕は色々と想像してしまう。 この集合住宅は2LDKなので女が一人暮らしするには大き過ぎる。 父親、母親、子供二人の四人家族で住んでいる世帯に適しているアパートなのである。 僕は一人暮らしだが、僕は狭っくるしいアパートだと体調が悪くなので多少ゆとりのある、このアパートを選んだ。 それに僕は小説や医学書など書籍がたくさんあるので狭いアパートでは、それを置く場所がないのである。 なので僕はこのアパートを選んだ。 ここのアパートは防音が悪く、隣の部屋の音が聞こえてしまう。 しかし隣は山本美津子さんだ。 ザーと勢いのいい音がすると「あっ。美津子さんがお風呂に入っているな」と気づく。 それを聞くと僕は嬉しくなる。 僕は想像力過多なので彼女が裸になって全身を洗い湯船に浸かっている姿が想像されてしまうのである。 彼女は夕方、毎日、風呂に入っていた。 しかしである。 ある時から彼女が入浴する音が聞こえなくなった。 彼女は毎日、入浴しているのに、どうしてだろう、と僕は疑問に思った。 入浴の音が聞こえなくなって三日経った。 その日の夜である。 ピンポーン。 僕の部屋のチャイムが鳴った。 「はーい」 僕は玄関を開けた。 すると山本美津子さんが立っていた。 「あっ。こんばんは。どうしたんですか?」 「山野さん。こんばんは。夜分遅く申し訳ありません」 彼女は深く頭を下げた。 「こんばんは。どうしたんですか?」 「実は、お風呂に入ろうとしても、お湯が出ないんです。それで、そのことを不動産屋に言って調べてもらったら給湯器が故障していると言ったのです」 「そうですか。ここの不動産屋はケチですからね。給湯器の寿命は大体10年くらいなんです。僕も、このアパートに入って半年で給湯器が動かなくなりました。不動産屋に連絡して修理の人に来て見てもらったら中はボロボロで、しかも、なんと給湯器は40年前に取り付けられたものでした。ここの不動産屋は、ずさんで、付属設備はぶっ壊れるまで使って、ぶっ壊れたら交換しようという方針です。まあ気にしてないですがね。ところで御用は何でしょうか?」 「あ、あの。山野さん。申し訳ありませんが、お風呂を貸して頂けないでしょうか?」 彼女は卑屈そうに言った。 僕は表情には出さなかったが心の中では飛び上がらんばかりに喜んだ。 なにせ憧れの美津子さんが僕の部屋に入ってくれて、しかも風呂にまで入ってくれるからだ。 「え、ええ。かまいません。どうぞ使って下さい」 「あ、有難うごさいます。では失礼します」 そう言って彼女は僕の家に上がった。 彼女は6畳の畳の部屋につつましく正座した。 僕は風呂場に行き蛇口をひねって浴槽にお湯を入れた。 「さあ。どうぞ使って下さい」 浴槽にお湯がいっぱいになったので彼女に言った。 「あ、有難うございます」 彼女は風呂場に行った。すぐに、パサリパサリと服を脱ぐ音が聞こえた。 そして彼女がザブンと湯船に入る音が聞こえてきた。 僕は想像力過多なので、彼女が裸になって全身を洗い湯船に浸かっている姿が想像されてしまった。 彼女の全裸姿までもが想像されてしまった。 20分くらいして彼女は風呂からあがって服を着てやって来た。 「山野さん。どうも有難うございました。私、毎日、風呂に入る習慣なので給湯器が故障してしまって困っていたんです。どうも有難うございました」 彼女は深く頭を下げ僕に礼を言った。 「いえ。かまいません。給湯器がなおるまで毎日でも風呂をお貸しします。どうぞ遠慮なくお使い下さい」 「山野さん。有難うございます」 彼女は何度も礼を言って、「それでは、お休みなさい」と言って部屋を出て行った。 彼女が去ると僕は急いで風呂場に行った。 浴槽には彼女が入った後の湯が満たされていた。 僕は興奮した。 (ああ。このお湯は彼女が入ったお湯だ) (このお湯は彼女の体液の沁み込んだお湯だ) そう思うと僕は、そのお湯がこの上ない貴重な宝物のように思われた。 僕はコップで風呂のお湯をすくった。そして、それを飲んだ。 彼女の体液が沁み込んだ、お湯を飲めたことに僕は最高の喜びを感じていた。 出来ることなら風呂のお湯を全部、飲みたかったが、そういうわけにもいかない。 僕は服を脱いで浴槽に入った。 彼女の体液の沁み込んだ、お湯に浸かることによって、ほんの微量ではあっても彼女の体液に触れているようで、彼女と間接的に触れているような気分になって僕は最高に幸せだった。 その日から一週間、毎日、彼女は僕の所にやって来て僕の風呂に入った。 そうしているうちに、僕はだんだん彼女と親しくなっていった。 しかし彼女の部屋の給湯器は一週間後に修理されて使えるようになった。 「山野さん。有難うごさいました。給湯器は修理してもらって使えるようになりました」 アパートの前で彼女と出会った時、彼女はニコッと微笑して僕に言った。 そのため彼女は自分の部屋の風呂に入れるようになったので僕の所には来なくなった。 僕にとっては、とても残念だった。 だが、まあ仕方がない。 そうして一週間ほど経ったある日の夜ことである。 ピンポーン。 僕の部屋のチャイムが鳴った。 「はーい」 僕は玄関を開けた。 すると山本美津子さんが立っていた。 「あっ。こんばんは。美津子さん。どうしたんですか?」 「山野さん。こんばんは。夜分遅く申し訳ありません」 「どうしたんですか?」 「山野さん。実は。私いつもスーパーで閉店間際の値下げした食材を買っているんです。それで、数日前、牛肉、野菜の、大特価があったものですから、ちょっとたくさん買い過ぎてしまったんです。それで捨てるのも、もったいないですから全部、料理してしまったんです。でも一人では食べきれない量なので。それにお風呂を貸してもらったお礼として。もしよろしければ、山野さんに食べていただけないかと思いまして」 そう言って彼女は皿に盛られラップをかけられた肉野菜炒めを申し訳なさそうに差し出した。 「うわー。嬉しいな。美津子さんの作ってくれた料理を食べられるんて。有難く頂きます」 「有難うございます」 「でもタダでもらうわけにはいきません。食材と調理してくださった分のお金は払います」 そう言って僕は彼女に3000円渡した。 「あっ。こんなに頂くわけにはいきません」と彼女は言ったが、こればかりは僕は譲らなかった。 彼女は、3000円を受けとると「すみません。有難うごさいます」と申し訳なさそうに言って去って行った。 僕は自炊をしない、というか、出来ないので、食事は外食かコンビニかスーパーの弁当だった。 彼女が作ってくれた食事を食べられるなんて夢のようだった。 僕は彼女の作ってくれた肉野菜炒めを食べた。 物凄く美味しかった。 僕は皿を洗って、それを彼女に返しに行った。 ピンポーン。 僕は彼女の部屋のチャイムを押した。 「はい。どちらさまでしょうか?」 インターホンから彼女の声が聞こえた。 「山野です」 僕は答えた。 「あっ。山野さん。お待ちください。すぐ行きます」 彼女の声が聞こえ、パタパタと玄関に向かう足音が聞こえ玄関の戸が開いた。 「あ。あの。美津子さん。肉野菜炒め美味しかったです。お皿を返しに来ました」 そう言って僕は彼女に皿を渡した。 彼女はニコッと微笑んだ。 「美味しかった、なんて言ってもらえて嬉しいです。たいして手間をかけて作ったわけでもないのに」 「いやー。僕は自炊なんか面倒くさくてしないので食事は毎日コンビニ弁当です。コンビニ弁当は人工着色料、人工甘味料、人工保存料などの食品添加物が、ふんだんに使われているので健康にも良くないんです。だから手作りの料理は美味しいんです」 彼女はニコッと微笑んだ。 「あ、あの。山野さん」 「はい。何でしょうか?」 「もしよろしければ、これからも食事をたくさん作り過ぎたら山野さんに差し上げてもいいでしょうか?」 「ええ。そうして頂けると嬉しいです。ただ一つ条件があります」 「何でしょうか。その条件というのは?」 「それは、食材と調理の手間代です。タダで貰うわけにはいきません。その条件を聞いて頂けるのなら喜んで頂きます。しかし、その条件を聞いてくれないのならタダで頂くわけにはいきません。どうでしょうか?」 僕は強気に彼女に判断を求めた。 「わ、わかりました。本当のこと言うと。山野さんは、きっと自炊してないだろうと思っていたんです。コンビニ弁当は人工着色料、人工甘味料、人工保存料などの食品添加物が、たっぷり入っていますから、そしてコンビニ弁当はビタミンやミネラル、食物繊維などが無いので栄養のバランスが悪く健康に良くないと思っていたんです」 「そうだったんですか」 それから彼女は、時々、料理を僕の所に持って来てくれるようになった。 僕は金を払って彼女の料理を受けとって食べた。 ある日、彼女は、 「あ、あの。山野さん。よろしかったら一緒に食べませんか」 と言った。 「ええ」 僕は喜んで答えた。 僕は彼女の部屋に入った。 そして食卓に向き合って座った。 その日の料理は、すき焼きだった。 「いやあ。嬉しいな。美津子さんと一緒に食べられるなんて」 僕は嬉しそうに言った。 「私もです。食材は一人分で買うより二人分買って、二人分、作る方が、ずっと安上りですから。それに一人で食べるより二人で食べた方が美味しいです」 彼女は少し照れくさそうに言った。 「いただきます」 僕は彼女と一緒に、すき焼きを食べた。 彼女は野菜ばかり食べて、あまり肉は食べなかった。 僕に肉を食べてくれるよう配慮してくれているのだ。 僕は彼女の好意を感謝して素直に肉を食べた。 ホカホカご飯も美味しかった。 食べ終わって「ごちそうさま。美味しかったです」と言って僕は立ち上がった。 彼女の部屋に入るのは初めてだったが、彼女の部屋はガランとしていて荷物はほとんど無かった。 彼女は一人暮らしで彼氏はいないんだな、とわかった。 ここの集合住宅は親子4人で生活できるほどのスペースがあるのに彼女は一人暮らしなのに、どうして、このアパートを選んだのかは僕にはわからなかった。 僕は「さようなら。おやすみなさい」と言って彼女の部屋を出た。 そして自分の部屋に入って布団をかぶって寝た。 その晩はぐっすり眠った。 翌日になった。 その日は美津子さんの部屋は物音が全くなくシーンとしていて彼女がいないのが、わかった。 その夜のことである。 ピンポーン。 僕の部屋のチャイムが鳴った。 「はーい」 僕は玄関を開けた。 すると山本美津子さんが立っていた。 「あっ。こんばんは。美津子さん。どうしたんですか?」 何事かと僕は思った。 「山野さん。こんばんは。夜分遅く申し訳ありません」 「どうしたんですか?」 「あ、あの。大変申し訳ないのですが一晩泊めて頂けないでしょうか?」 突然のことに僕は驚いた。 が僕は気を取り直して彼女に聞いた。 「え、ええ。かまいません。何か事情があるんですね。どうぞ、お上がり下さい」 「失礼いたします」と言って彼女は僕の家に入った。 彼女が僕の部屋に入るのは給湯器が故障して僕の部屋の風呂を使って以来、久しぶりのことだった。 座卓の前に彼女は憔悴した様子で座った。 「どうぞお泊まり下さい。遠慮はいりません。でもどうしてですか?」 実は・・・・と言って彼女は語り出した。 「実は私、お金が無くって家賃をずっと滞納していたんです。それでずっと不動産屋に家賃を払うよう催促されていたんです。私は必ず払いますから、どうか待って下さい、と土下座までして不動産屋に頼んでいたんです。しかし、不動産屋はとうとう私にアパートを出るように命じたんです。それで仕方なく私はアパートを出ました。なので私、泊まる所がないんです。なので、すみませんが、山野さんの部屋に泊めて頂けないでしょうか?」 彼女は畳に頭を擦りつけて僕に頼んだ。 「そうですか。僕はかまいません。どうぞ泊まって下さい」 僕がそう言うと彼女は、 「あ、有難うごさいます」 と言って涙をポロポロ流した。 彼女の持ち物といったらカバン一つだけだった。 2LDKなので部屋は二つある。 6畳の二つの部屋はふすまで仕切られている。 なので一つの部屋に僕は寝て彼女は隣の部屋に泊めた。 こうして彼女は僕の部屋に住むようになった。 僕は朝、出かけ、病院で働いて夕方、帰って来るという今まで通りの生活をした。 しかし帰ってくると彼女は、 「お帰りなさい」 とニコッと微笑んで、 「今すぐ料理を作ります」 と言ってキッチンに行った。 僕は自炊を全くしないので、コンロも換気扇もホコリをかぶっていたのだが、彼女が来たことによって、コンロに火が灯り、フライパンでジュージュー食材を調理する音が鳴り、そして換気扇が初めて動き出した。 料理が出来あがると彼女は食卓に料理を並べた。 「山野さん。夕食が出来ました」 彼女に呼ばれて僕は食卓に彼女と向き合って座った。 食卓には、ホカホカの鮭のホイル焼きの料理が用意されていた。 「うわっ。美味しそうだ。頂きます」 僕は彼女と一緒に夕食を食べた。 彼女も嬉しそうだった。 家庭の味、普通の生活とは、いいものだな、と僕はつくづく感じた。 彼女が僕の部屋に来てくれたことで死んだ家に活気が出てきた。 僕は無精なので、掃除は1年に4回くらいしかしなく、布団はもちろん敷きっぱなしの万年床で、朝、窓を開けるということも面倒くさくてしなかった。 しかし彼女は窓を開け、布団をベランダに干し、毎日こまめに掃除してくれた。 そのおかげで部屋の空気が新鮮になり布団も干されて日光を浴びて、ふっくらと温かくなった。 そして僕が仕事を終えて家に帰ってくると彼女は、 「お帰りなさい」 とニコッと微笑んで、 「今すぐ、料理を作ります」 と言ってキッチンに行って料理を作った。 何だか僕は彼女と同棲しているような気分になった。 というより実質的には同棲と同じである。 しかし僕にはどうしても譲れない一つの事があった。 それは夜の営み、つまりセックス、性的行為であった。 世間の男女が一つ家に同居したら100%セックスするだろう。 「だろう」ではなく「する」のである。 しかし僕(山野)はそれが嫌だったのである。 もちろん山野は女に飢えている。 しかし彼は100万人に1人いるかいないかの、プラトニストだったのである。 彼にとって女は憧れの対象だったのである。 なので憧れは、いつまでも憧れのままにしておきたかったのである。 彼にとって女とは人間の言葉を話す美しい美術品だった。 美術品には手を触れないものである。 世間の男女がお互いに好意を持つと、その後どうなるかは決まっている。 初めの頃は相手の事ばかり想うようになる。そしてデートする。そして同棲する。そして結婚する。である。しかし結婚すると相手に遠慮がなくなり、言いたい事をズケズケ言い合うようになる。そして相手の全てを知ってしまうと相手の嫌な所もわかってくる。相手に対して遠慮がなくなってしまう。意見が合わず口ゲンカをするようにもなる。ダラダラ、ズルズルの関係になっていく。そして激しい口ゲンカをして相手に幻滅して「離婚しよう」ということになる。それが繊細でデリケートで、もののあわれ、を知っている僕には嫌だったのである。 実際、彼女と同棲するようになって、僕は彼女に対して、最初に彼女が鳩サブレーを持って挨拶に来た時の天にも昇るような胸のときめきの感度が少し低下していた。 武士道の心得を書いた葉隠の恋愛観 「恋の至極は忍ぶ恋にありと見立て候。会いてからは恋の丈が低し。一生忍んで想い死するこそ恋の本意なれ」 というのが僕の恋愛観なのである。 なので僕は食事中に彼女にそのことを釘さした。 「美津子さん。ここに泊まりたいのなら泊まっても構いません。あなたには何かの事情があるのでしょう。そのことは聞きません。しかし一言、いっておきますが、僕はあなたの体に指一本触れません。そして僕の前で着替えるようなことはしないで下さい。それを守って下さるのであれば、ここに泊まっても構いません。僕もあなたとの生活は楽しいです。しかし、それを守ってもらえないのであれば、あなたをここに泊めることは出来ません。僕はあなたを憧れの対象にとどめておきたいのです。どうですか?」 僕は彼女に判断を求めた。 彼女は素直な表情で、 「わかりました。山野さんがそう仰るのならそうします。私には泊まる家がありませんから、ここを追い出されたら凍え死ぬだけですから」 と少しさびしそうに言った。 こうして僕と彼女のセックスなしの同棲生活が始まった。 セックスが無いという以外は普通の同棲生活と同じであり僕は彼女との共同生活が楽しかった。 彼女も僕との共同生活が楽しいのは、いつもニコニコ微笑んで「山野さん。お帰りなさい」と笑顔で出迎える彼女の態度から明らかだった。 しかし休日には、鶴岡八幡宮や円覚寺、建長寺、銭洗弁財天、高徳院、明月院、江ノ島神社などにドライブに行った。 鎌倉には寺や神社など名所旧跡がたくさんあるので休日には色々な所に行った。 こうして一カ月が過ぎ二カ月が過ぎた。 ある日のことである。 彼女は、 「哲也さん。言わなくてはならないことがあります」 とあらたまった口調で話し出した。彼女は、 「実は私は幽霊なんです」 とか 「実は私は宇宙人なんです」 とか 「実は私は殺人犯なんです。指名手配されているんです。どうか、かくまって下さい」 とか、そういう変なことは言わなかった。 彼女はこう言った。 「哲也さん。正直に率直に言います。実は私は、山野さんと結婚したくて、この集合住宅に越してきたんです。山野さんのことは知っています。お医者さまで、女性に優しくて、女性を大切にしてくれる素晴らしい男の人だということを。なので、私はぜひとも哲也さんと結婚したくて哲也さんに接近したんです。給湯器も本当は故障していなかったんです。山野さんと付き合いたい口実で言ったウソなんです。どうでしょうか。私と結婚してもらえないでしょうか?」 僕は、うーん、と腕組みをして悩んだ。 僕は一生、結婚する気はなかったからだ。 だが僕は人生において、一度、結婚というものをしてみたい、という願望も持っていた。 なので僕は、 「じゃあ、入籍だけならいいです」 と答えた。 しかし彼女は、「有難うごさいます。嬉しいです」と言って喜んだ。 こうして僕は市役所に婚姻届を出した。 他人に知られたくないので結婚式などというものはしなかった。 しかし婚姻届を出した後。 一カ月経ち、二カ月、経った。 僕は勇気を出して、 「美津子さん。そろそろ結婚ゴッコは終わりにして離婚してもらえませんか」 と言うと彼女は、 「さびしいわ。さびしいわ。えーん。えーん」 と泣き出すのであった。 それを見ると僕は、それ以上、彼女をさびしがらせることが出来なくて何も言えなくなってしまうのである。 こうして僕は美津子と結婚生活を続けている。 それが今の僕の妻、美津子との物語である。 作者注。 この話を信じるか信じないかは読者の勝手である。 面白い小説になっているか、つまらない小説に過ぎないかはわからない。 僕は、ともかく小説を書いてないと、うつ病になるので書いた。 わざと奇をてらったりはしていない。 作者(僕)の心情に偽りはない。 2024年1月18日(木)擱筆
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