対岸

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対岸

 迂闊だった。カーテンレールに仕切られたスペースにあるベットの上に横わりながら、改めて俺はそう思った。  一週間ほど前、職場である倉庫の中で積み上げられていた教科書が崩れ、俺はその下敷きになった。  不幸中の幸いか、その時に悪くしたのは足だけだったのだが、足が動かなければ仕事も出来ない。  学校に教科書を運ぶ事も、検品の為に教科書の山に登る事も出来ない。というか、松葉杖が必須で日常生活にも支障が出ていた。  という経緯があり、俺は今病室の中で絶賛入院生活を満喫、はしていなかった。  この病室では、とにかくやる事がない。元々インドア派な趣味も無いし、活字を読もうとしても1時間も持たない。  学業に必要不可欠な物を取り扱う仕事をしている割に、俺自身は全くと言って良いほど教養がない人間だと強く思い知らされた。  おまけに、この病室にはプライベートが皆無だ。  俺が入院している部屋はカーテンで仕切られたベッドスペースが3つある部屋で、3人部屋となっているのだが、生活音は勿論の事、隣人とその面会に来た人間の会話も丸聞こえである。  だが、嫌なことばかりと言うわけでもない。最初はそれなりに気を使っていたが、俺自身が人と話す事が好きな事もあり、病室の2人とはすぐに打ち解けた。  1人は安藤さんと言って、隣のベッドの気の良いお爺さんだ。 「最近階段から転げ落ちちまってよお、俺ももう歳だなって実感させられるわな!」  そう笑って話す安藤さんは年寄りながらもベッドで上体を起こしている時は腰も曲がっておらず、生き生きとして豪胆な印象を感じさせる。  正直、階段から落ちるなどと老人にありがちな要因とはかけ離れてそうな男性だ。  もう1人は篠原さんといって、これまた年配の男性だ。安藤さんほどでは無いが、齢50を過ぎた男性で、本人は寡黙な男性だった。  篠原さんとも話すようになったのは、面会に来ていた奥さんがお喋りな方だったからだ。度々面会に来ては、寡黙な旦那をほっぽり出して俺と安藤さんと話に花を咲かせている。  花を咲かせているといえば、篠原さんと奥さんは花屋を営んでいるらしく、奥さんは人手が居ないんだから早く戻ってこいと病人に今にもポケットから鞭を取り出して叩きそうな勢いでいつも口癖の様に言っている。そもそも、良く面会に来れる時点で店はそこまで忙しく無いのではないかと疑わしい。  そんな奥さんを見て、「大変そうですね」と俺が篠原さんに言っても、当人は「もう慣れてるよ」と微笑んで返すのみなのだから、余程昔から尻に敷かれ慣れていると見える。案外、そんな夫婦の方が長続きするのかもしれない。  そんな騒がしくて、いつもナースに「静かにしていただけると・・・」と小言を言われるこの部屋が、今日は一転、静まり返っている。同室の2人がリハビリで抜けているからだ。  こうなると、途端にやる事がない。  いつも「佐々木くんは若いんだからすぐに出ていっちまうんだろ?篠原さんと2人じゃ奥さんの相手をするのが俺しか居なくなっちまうじゃねえか」と朗らかに話しかけてくる安藤さんも、「退院したら私の店に来なさいよ!男の子が花好きだって何も恥ずかしい事なんて無いんだから!」といつも言う篠原さんの奥さんも居ないと、どうも調子が狂う。  何となく、病室の外をぼんやりと眺めてみた。  この部屋の外はお世辞にも景色が良いとは言えない。むしろ、病棟と隣り合っていて陽の光はあまり当たらないし、見えるのは壁と隣の病棟にあるであろう一室の窓だけだ。その部屋の窓は俺が入院してからはいつ見てもカーテンが閉まっていて、誰が入院してるかさえ分からない。そもそも、普段は病室が大体騒がしくて窓の外などあまり見ない。  だから窓の外を見たのか、それともこちらが普段見ていないだけで、割と開けているのかは分からないが、今日はカーテンが開いていた。  窓のそばにいたのは16〜17歳程だろうか。少女がどこか物寂しそうな顔で外を見つめていた。  そんなに見ても、反対側から見える景色など大して変わらないだろうに。  他に見るものがないので、ぼけっとその少女を見ていると向こうがその視線に気がついたのか、こちらと目が合った。何処か気まずい気がして苦笑いしながら手を振ってみる。俺は今不審者じみている顔をしているだろうな、と鏡を見ずとも分かった。  そんな俺を見て彼女は、首を傾げながら手を振りかえしてきた。  「佐々木さーん」 と呼ばれたのはその時だ。  お食事の時間ですよ〜とナースが配膳している途中、窓の外をもう一度見てみたが、もうカーテンは閉まっていた。
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