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成金の家に生まれた。
父が自分では成しえなかった、音楽家という夢をわたしに押し付けた。わたしは三歳から人生を楽器とともにした。スタートが早かったため飲み込みもよく、幾度となく賞を獲っては、そのたびにご馳走が食卓に並んだ。わたしは父の夢だった。夢を具現する装置だった。翻っていえば、音楽で成績を上げないわたしは父にとってはそもそもいらない、必要のない子だった。
ヴァイオリンにピアノ、フルートと、現代的なクラシックの器楽を徹底的に叩き込まれた。楽典的教養――和声や音階、調とかコード進行といった知識は嫌でも身に着いた。しかし残念ながら音感だけは悪く、こんなに高いレッスン料を払っているのに、と父からは冷たい目線を浴びた。聴ソル――聴音とソルフェージュという科目ついては、はっきりいって最悪だった。実技や音楽理論では首位争いを続けていたが、聴ソルは下から数えるほどだった。成績が悪すぎて、レッスンがつらすぎて、音楽を辞めよう、父に詫びて挫折したことにしよう、と思うほどであった。
しかしながらも音楽系コースのある県立高校にかろうじて合格し、そこでわたしは交響楽団に所属した。
第二体育館の防音扉を開くと、大音声でさまざまな楽器が鳴り響き、うねりを上げ、さながらロックバンドのコンサートか、もしくは悲鳴と祈りに沸く野戦病院の様相であった。
ああ、気持ちがいい。
なぜかしら、この不協和音、いや、雑音というか騒音がわたしは大好きなのだ。軽音楽部のディストーションや、ピックアップしたノイズってこんな感じなのだろうか。
背負っていたヴァイオリンを取りだす。調弦し、いったん楽器をケースに置き、弓を取り出してテンションをかけ、ごく軽く松脂を塗り――と、一連の動作をプルトの裏の子と昨夜動画で観た芸人の話をしながら行なう。造作もない。十二年間やっているのだ、うたた寝しながらだってできる。
練習も休憩時間となる。楽器のボディや弦に付着した白い松脂を拭き取る。塗りすぎたかな、と思いながらほつれかけの弓の馬毛を裁縫用の小型で、先のとがった糸切狭で切る。パイプ椅子にわたしが人生で背負うべきもの、賭けるべきもののすべてを置く。ぬるくなったペットボトルのお茶をあおる。いっとき、遠くの方でドラムス、ギター、ベース、キーボード、ボーカルを、シールド越しにアンプやエフェクターで増幅したり、歪ませたりした音が耳に届く。おおかた、軽音部でも休憩を取っているのだろう、防音扉が開くときに音が漏れるのだ。
あれもいい音だ。気持ちがいい。
わたしは確実にそう思った。
「あの」
わたしは第一ヴァイオリンのいちばん指揮台よりの先輩――つまりはコンマスの男子へ声をかける。「ちょっとトイレ行ってきます。あと、その――今日は長くかかりますけど」
「ん? あ、ん――」
コンマスはただちに気づいた。「あ、ああ。ゆ、ゆっくり行ってきたらええよ」
コンマスは照れてしまい、うつむいていった。
『軽音楽部』
部室には白いプレートにそれだけ書かれ、ドアの上に掲げられていた。ノックしてもどうせ聴こえないだろうな。扉の把手に手をかけようとすると、頬に冷たいものが当てられる。「ひぁっ!」と驚いてしまう。
「あーら、珍しい。あんた、クラシック一筋の」
同じクラスの子だ。話す機会はないけれど。噂は耳にする。いつもニーハイを穿いておりスカートも短く折り、また胸も大きいので色々――本当に色々な噂も耳にするが、掛け値なしに美人だ。「あんた、見学? あっちは? オケはいいの?」
「ああ、いや、ちょっと見るだけなんだけど、練習中?」
「んー、とりあえず部長的にはオッケーだと思うけど」と、かの女はわたしの頬に当てたファンタグレープをぐびりと飲む。
「部長?」
「うん、あたし。部長」げふっ、とかの女はげっぷをする。
中へ通されるとオケの何倍もの音量で楽器が鳴っていた。正確には、鳴っているのは楽器ではなく機材なのだが。
「すごい」それだけいって、わたしは気圧されてしまった。
「なにー? なんかいったー?」
先ほどの子――部長があれこれ機材を調整しながら大声でいう。それすらも聞き取りにくい。「ていうかさ」
かの女はスタンドのマイクに向かって話す。驚くほどの変容だ。マイク、アンプやエフェクター、スピーカーやその他を通したかの女の声は別人のように透き通り、水晶を思わせるほど凛としていた。かの女は自分のギターを肩から外すと、わたしに寄越した。
「なんかてきとうに弾いてみなよ、見学なんだし。Gsus4でも押さえときゃ、あとはどうにでもなる」生音の声、普通の話し声は、やはり高校一年生らしくまだあどけない。わたしはその変化に驚く。
「ピアノじゃないから押さえ方分かんない」
するとかの女はわたしの後ろに回り込み、「小指はここ、んで、こうやってこうして――」と、わたしの左手を各弦に置いてゆく。
「あっ、やわらかい」
「は、はあ? い、いくらあたし発育がよくたって、もう」
「あ、いや、弦が」とわたしまで照れてしまう。
「ああ――まあ、ヴァイオリンやアコギよりかはそうだろうね。なんだよ、せっかくいいムードだったのに」とかの女は俗っぽく笑う。しかしマイクをスタンドから取りわたしの正面に立つと、あのクリスタルボイスで「じゃ、弾いてみ。まず単音で。どこでもいいから」といった。
ピックで弦をはじく。
――すごい。わたしがこの音を出せたのか。驚くほどの音量だ。左手を少し動かしたときのピッチの上下が面白い。
うん、気持ちがいい。それもかなり。思わず口元が緩む。
オーケストラでこんなに楽しかったことがあっただろうか。いつか辞めてやる、来月には、いや、期末試験が済んだら絶対辞めてやる――そうして歯を食いしばって耐えてきた。いまは何にもとらわれず、音が出た、というだけで子どものように喜んでいる。
かの女がマイクをこちらに向ける。「――音色がいい」といって、わたしは頬を緩ませてしまう。
「ぼろっちい七十年代とかのエフェクターだけどね。音作りにはこだわってんだ、あたし。命だもんね。そう、マイクもいい音だったっしょ。そのままもうちょっとてきとうに弾いてごらん」
「てきとう、って? 楽譜もなにもないのに」
かの女はファンタを飲みながら「いいんだよ、正しく弾けなくたって。それをいったらなにも楽しめなくなっちゃう。ね、見学さん」といい、「まあ、あたしら軽音のやってることはオナニーみたいなもんだし。せいぜい学祭でコピる程度。オケと違って、勝つための音楽じゃないもん。エンジョイしてなんぼ。そんなやつらがこうして集団でよがってんだよ。絶対楽しいに決まってるじゃん」と続けた。
「要するに」空のペットボトルを捨てに廊下へ出てかの女はいう。
「辞めたいけど辞められないか、辞めたくないから辞められない、この二択なんだよ、音楽やってる奴らは」
見透かされたのだろうか。
体育館に練習に戻ると、顧問がタクトをケースから出すところだった。ひたすら詫びて席に着く。かの女の言葉はずっと胸に残り、わたしは今でも辞めどきを見きわめられず、私学で教鞭を執りつつ、ヴァイオリンを続けている。
――ああ、あとそれから、去年ギブソンのエレキギターも買ったんだっけ。
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