言えない「ただいま」

1/5
前へ
/5ページ
次へ
 汽車の窓から河川敷が見える。  実家の近くを流れており、小さい頃は毎日のようにこの川で遊んだものだった。  この川を見ると、故郷に帰ってきたという実感が湧いてくる。  汽車は煙を吐きながら、熊本の駅へと向かう。  母や弟、妹にもうじき会える。  複雑な心境であった。  家族に顔を合わせたくないという気持ちもまた、本音なのだ。 * * *  駅に着いた。  汽車を降り、歩いて実家を目指す。  目に入る光景すべてが懐かしい。  道すがら、顔なじみのご近所さんに出会う。 「よう帰って()なはったね! 元気にしおったとね」 「はい! お陰様で、元気に過ごしております!」 「それはよかごつ(よかった)ね。はよ家族に会いなっせ。あ、そうそう、うちの庭で野菜がまうごつ(たくさん)採れたけん、後で持っていくけんね」 「はい。恐れ入ります。ありがとうございます」  こういった、ご近所さんとのやり取りもまた、懐かしい。  故郷の人々は皆、温かい。  懐かしいのは風景ばかりではない。  人の優しさもまた、懐かしいものであった。  歩みを進める。  ついに、実家が見えてきた。  家の前で、弟と妹が遊んでいるのが見えた。  俺は思わず、茂みに身を隠す。  弟も妹も、元気そうだ。  笑顔で楽しく遊んでいる。  その顔を見れただけでも、俺は帰ってきたかいがあるというものだ。  ──ただいま──  と言いながら、二人の前に出ていきたい。  そうすれば、兄ちゃん! と叫びながら俺の方に駆け寄り、抱きついてきてくれることだろう。  ──ただいま──  その短い言葉を言う決心がつかなかった。  茂みの影から、俺は自分の家と弟妹を見続けていた。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加