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夢見る人と夢から醒めた人
《世界的ピアニストと、無名ピアニストの不倫密会?!》
週刊誌に突然載った記事に、理紗は絶句した。
「これは…伏見真啓さんと、食事へ行った時の写真だね。」
隆は雑誌を読みながら言った。
「不倫なんて…ただ食事をしただけなのに、酷い書かれ様だわ。」
溜息をつく理紗を、隆は優しく抱きしめた。
「大丈夫。すぐに嘘だって判るさ。」
隆は、真啓のことを心配する理紗を、抱き寄せて優しく肩を撫でた。真啓は、渡米中だった。
「メールしなくっちゃ。」
理紗は、慌ててメールを真啓に送った。
――― ♪~♪。
真啓は、リハーサルの時に理紗からのメッセージを受け取った。
…しまった。
真啓は深い溜息をついた。今回はイヴァンとの仕事でアメリカに来て居た。イヴァンには、理紗の活動が軌道に乗るまで、大人しくしてて欲しかった。きっと誰かが、イヴァンにこのことを話す筈だ。
「理紗と日本で会ってたの?彼女元気だった?あなたと理紗は仲が良かったけど、そんな関係じゃないことはみんな判ってるわ。」
理紗のこともイヴァンのことも良く知っているコンミスが、真啓に声を掛けて来た。
…やはり…噂は伝わってるのか。
イヴァンの耳にも入っている筈だ。イヴァンは独身になったことで、一段と女遊びが激しくなっていた。
しかも、道で拾った女や,バーで知り合った女など見境い無く家に連れ込んで居ると聞いた。髭を伸ばしたままや、酒の臭いをさせて、リハーサルに来ることも度々で、楽団の皆に心配をされていた。
「今日も遅れてくるのかしら?」
コンミスは、時計を見ながらホールの入り口をちらりと見た。練習開始時間は、とっくに過ぎていた。
「僕,教授に電話してきます。」
真啓が、スマホを出し、ホールの入り口へと歩き出した時だった。
――― バターン。
入り口のドアが大きく開き、イヴァンが入って来た。
「あ~あ~…今日は一段と酷いな。」
誰かが、小さな声で言った。
「ベッドの上から、そのまま来たな。」
誰か、がくすりと笑った。
「セルマが、一緒に住んでいたんじゃないの?」
「いつの話をしてるんだよ。そんなの教授の浮気でとっくに終わってるよ。」
「セルマは、今は10歳も年下の若手ピアニストと付き合ってるんですって。」
「へぇ~やるなぁ。」
「しーっ!!聞こえるわよっ。」
足取りはしっかりとしているものの、髪はボサボサで顔は脂ぎっていて、ネクタイはしておらず、シャツは皺くちゃ、ズボンには、座り皺がついていた。以前とは全く対照的な姿に、呆然とした。
…なんて姿だ。
身だしなみに気を使い、いつもさっぱりとしていてダンディだった昔の面影は、皆無。
去年は、恋人のセルマがイヴァンのことを甲斐甲斐しく世話をし、まるで妻の様に振る舞い、見苦しいと顰蹙を買っていた。
「教授…大丈夫ですか?」
真啓は、他のメンバーに、聞こえないように小さな声でイヴァンに声を掛け気遣った。
しかしイヴァンはそれを無視して、ステージへと向かったので、真啓も慌てて後に続いた。
…酒臭い。
それは、世界的に有名な指揮者イヴァン・コンスタンティー二では無く、女に捨てられた、ただの哀れな中年男性の姿だった。
「さぁ…始めよう。」
オーボエがAの音を出し、コンミスがそれに続きチューニングが始まった。真啓もピアノの前に静かに座った。
チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番。
ピアノとオーケストラの伸びやかで力強いモチーフが数分繰り返される。真啓が得意とする曲だ。
「駄目だ!真啓っ。それでは遅いっ。」「パッセージの部分…自分の音をよく聞け。」「やり直し!今度は速すぎるっ。」「ダメだダメだっ!もう一度!」
真啓にばかり、イヴァンの声が厳しく飛んだ。
「イヴァン。皆も疲れていますし、休憩にしませんか?」
コンミスが見かねて、イヴァンに声を掛けた。
「10分休憩にしよう…。」
皆の緊張が一気に抜けて、安堵から皆それぞれが、大きなため息をついた。
オーケストラでも演奏する回数も多く、謂わば定番中の定番のこの曲で、真啓が、これほどのダメ出しを貰うのは初めてだった。
「今日は虫の居所が悪いだけよ。」「真啓、気にするな。」「ミスター伏見。あなたの演奏は素晴らしいわ。」
ステージから去り、オフィスへと向かうイヴァンの背中を見ながら、皆が真啓を慰めた。
「皆さんに、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。先生に言われた通りに弾けるように、アドバイスを貰って来ます。」
真啓は、皆に頭を下げると、イヴァンを追いかけてオフィスへと向かった。
「真啓は本当に真面目だなぁ。」「あんなの放って置きゃいいんだよ。」
「あんな記事…本当な訳無いじゃない。」
メンバーが、口々に囁くのを背中で聞きながら、イヴァンの元へと真啓は向かった。
――― コンコン。
「入り給え。」
オフィスのドアをノックすると、イヴァンの声が聞こえた。
「教授、休憩中に失礼いたします。僕の演奏の何がいけなかったのでしょうか?」
イヴァンは、ソファーの上に寝転がって、頭を抑えていた。テーブルの上には、ウイスキーのボトルと頭痛薬、譜面が乱雑に置いてあった。
「君は、理紗が何をしているのか、知っていたんだね。」
…身の回りの世話を、してくれる女性も居ないのか。
あれだけの浮名を流しながら、長く続いたのは理紗だけだった。
湾曲した形ではあったが、イヴァンなりに、理紗のことを愛していたのかも知れない。
「教授。僕の先ほどの演奏の、どこがいけなかったのかを聞きに伺いました。」
真啓は、ゆっくりとイヴァンに近づき、目の前の一人掛けのソファーに腰かけた。
「あの男と、一緒なのも知っていたのか?いつからだ?」
真啓は、諦めた。
「彼女が、日本に戻って数カ月してから、友人が教えてくれたんです。」
テーブルの上の楽譜を、綺麗に揃え乍ら真啓は答えた。
「君がすぐに教えてくれていれば、理紗を連れて帰れたかも知れないのに…あんな平凡な男と、一緒になるなんて…馬鹿な女だっ!」
イヴァンは、吐き捨てるように言った。
「馬鹿なのは、あなたです。」
真啓はイヴァンを真っすぐに見つめ、冷たく厳しい口調ではっきりと言った。
「なにっ?」
イヴァンは、ソファから身体を起した。以前は、生徒として教えたこともある、とても大人しくて、従順だった真啓が、歯向かったからだ。
「理紗は、あなたから離れて良かったんです。」
真啓は顔色も変えず、きっぱりとイヴァンに言い切った。
「お前が教え子だとしても、わたしを侮辱することは許さん。」
イヴァンの拳は固く握りしめられて、わなわなと震えていた。
献身的な理紗を、裏切り続けた自分が、腹立たしくて許せず、今でも愛されていると思っていたのに、拒絶され、とても苦しかった。
「僕の親友であり、ライバルである理紗を、あなたが侮辱することこそ、僕は許しません。」
真啓の眼は、怒りに満ちていた。その態度から、理紗にあった出来事を、知っていることが見て取れた。
「お前に何が判るっ!才能があるのに、それをみすみす潰すようなことをして…。」
イヴァンは、苛立ちを抑えるように、膝の上で拳をギュッと握っていた。
「彼女をそうさせたのは、コンスタンティー二教授…あなたです。」
「何だとっ!」
イヴァンは、ソファーからすくっと立ち上がった。その手は、今にも爆発しそうな怒りを、抑えている様だった。
「僕は、指揮者としてあなたを尊敬していますが、人間として軽蔑します。それに…満足に仕事が出来ない、今のあなたに失望しました。」
それは、真啓の口からこぼれ出た、正直な気持ちだった。
――― パリーンッ。
次の瞬間、ガラスが割れる音がした。
イヴァンは、ウィスキーが入っていたコップを、真啓に投げつけた。それは見事に真啓の額にあたり、割れた。
「教授。目を覚ましてください。
"What's done is done. What's gone is gone."
いつまでも過去に捕らわれていてはいけません。理紗を失っても、あなたには音楽がついています。」
「出て行けっ!お前にはもう頼まんっ。」
イヴァンは、わなわなと震える指で、部屋のドアを指さした。
「あと15分ぐらい掛かると、皆に伝えておきます。」
真啓が部屋を出て、ドアが閉まると、イヴァンは咽び泣いていた。
ホールへ向かう寒い廊下を通り、控室へ戻る途中だった。どんなに裏切られようとも,イヴァンには、音楽が残る。それこそ、その才能を、酒で駄目にして欲しくなかった。
「あっ…。真啓っ!あなた怪我してるじゃないっ!!」
コンミスが、休憩時間が過ぎても、イヴァンと真啓が戻って来ないので心配してやってきた。
真啓のシャツは濡れていて、額は赤く腫れ、血が滲んでいた。真啓は、自分のポケットからハンカチを取り出して額を抑えた。
「これぐらい大丈夫です。」
「教授と何かあったの?病院へ行きましょう。」
慌てるコンミスを、真啓は引き留めた。
「いいえ何も。僕は外科医ですよ?これぐらいの傷、病院へ行かなくても平気です。」
「でも…。」
「僕は、大丈夫ですから。」
真啓は、静かに落ち着いた声で言った。
「この格好だと、皆に心配されてしまうので、僕は取り敢えず、今日はそのままホテルに帰ります。」
血のついたハンカチをポケットにしまいながら、真啓は言った。まだ額からは、じわじわと血が滲んでいた。
「このことは、メンバーには内緒にしておいてください。僕は、気分が優れないので、帰った…とでも伝えて下さい。」
「でも…。」
「教授は、あと15分ぐらいすれば、大丈夫だと思いますよ。」
真啓は、静かにホールの出口へと向かった。
♬*.:*¸¸
「今日はどうしたんだ?」「ははは…また女のところだろ?」
…イヴァンが、来ない。
電話を掛けても、留守電になってしまう。
「取り合えず、皆さん練習してて下さい。僕は、教授の家まで見に行ってきます。」
それぞれが、練習をし始めるのを見届けると、真啓はタクシーに乗り、イヴァンの屋敷へと向かった。
大きな屋敷は、一人で住むには大きすぎる。理紗が居た頃には、イヴァンは良く、自宅でパーティを開いた。
――― ♪~♪
玄関のチャイムを鳴らした。
…居ないのかな?
ドアノブを回すと、開いた。
…不用心な。
「教授!いらっしゃいますか?」
真啓は玄関で大きな声をあげた。耳を澄ませると、テレビの音が聞こえた。
「おじゃましますよ。」
そう言って、真啓は広い廊下を通り、リビングルームへと向かった。
「あっ…。」
真っ暗なリビングのソファで横になり、昨日の服のまま、イヴァンは寝ていた。
テーブルの上には、ウイスキーの空き瓶と、汚れたグラス、床には楽譜が散らばっていた。
真啓は、大きな溜息をつきながら、テレビを消し、部屋の重いカーテンを開けた。
「教授!起きて下さい。リハーサルの時間は、とっくに過ぎていますよ。」
カチャカチャと音を立て乍ら、空き瓶を集め、キッチンへと運んだ。
「ん…。」
イヴァンは、そう言ったまま横になっている。
「コンスタンティー二教授。朝ですよ。」
キッチンから戻って来た真啓は、楽譜を揃えて置いた。
「今…何時だ?」
眩しそうに目を開けたものの、イヴァンは起き上がる様子は無かった。
「もう10時を過ぎてます。リハーサルは9時からですよ?」
腕で暫く顔を隠して、何か考えて居るようだった。
「ああ…今日はキャンセルだ。」
真啓は風呂場へ行き、熱めのシャワーを出した。
「キャンセルはしません。シャワーを浴びて、今すぐ支度をして下さい。」
淡々と話しながら、バスタオルや新しい着替えを探した。きっちりと整理整頓されているのは、お手伝いさんが来て、掃除や洗濯をしているからのようだった。
「教授っ!いい加減にして下さいっ。これはあなたの仕事ですっ。」
厳しい真啓の口調に、のろのろと身体を起し、頭を抱えていた。
「大きな声を出さんでくれ…頭が痛い。」
何も言わず、真啓は、痛み止めと、水をキッチンから持って来て、テーブルの上に置いた。
「どうぞ。飲んで下さい。」
ゆっくりと手を伸ばし痛み止めを口に運ぶと、ごくごくと水を一気に飲んだ。
「さぁ…シャワーを浴びて来て下さい。15分でホールへ僕と一緒に行きますよ。皆さん待ってますから。」
ソファーに寄り掛かり、イヴァンは、ボーっとしていた。
「服を脱ぐのも、手伝いが必要ですか?」
真啓が冷たく言い放つと、イヴァンはじろりと真啓を睨んだ。
「髭も、そってきて下さいね。」
ふらりと立ち上がったイヴァンの後を、真啓はついて行った。
「わたしの女房気取りか?君が、そんなに面倒見が良いとは思わなかったよ。」
イヴァンは悪態をついたが、真啓は無視して、広いバスルームへと、イヴァンと共に入った。
「僕が、お背中流しましょうか?」
真啓は、タオルと、下着一式を手渡し、にっこり笑ってイヴァンに言った。
「そんなこと自分で出来るっ!馬鹿にするなっ!!」
――― バターンッ!!
イヴァンは、浴室のドアを力いっぱい閉めた。イヴァンが、浴室で大きな声で、文句を言っているのが聞こえ、真啓はくすくすと笑った。以前、理紗が話していた。
「イヴァンったら、腹の立つことがあると、大声で叫びながら、お風呂に入るのよ。わたしと喧嘩した後なんてね、私に言えないから、ひとりで文句を言ってるのよ。」
…怒鳴り散らす、元気がまだあるのなら大丈夫だ。
真啓はほっとしながら、同じホテルに宿泊しているマネージャーに電話を掛けた。海外公演の時には、いつもマネーシャーが随行していた。
「伏見です…お願いがあるのですが…。」
悪態をつきながら、シャワーを浴びるイヴァンを、
みるとつい笑ってしまう。
「全く…年寄りだと思って、どいつもこいつも馬鹿にしおって。」
数分後、文句をぶつくさと言いながらも、髭を剃り、髪もきちんと整えて出て来た。
「教授。洋服を出しておきました。それから、近くでパンを買ってきたので、食べてから行きましょう。」
真啓は、また聞こえない振りをして、イヴァンに煎れたてのコーヒーを渡した。
「それと…これ…ポストに入っていました。」
何枚かのチラシの中に、紛れて、見慣れない上品な封筒が一通あった。イヴァンの名前が書いてあるだけだったので、わざわざ家の前まで来て、投函したようだった。
イヴァンは不機嫌そうに手紙を受け取ると、読み始めた。今夜8時に一緒に食事をとの誘いだった。
…どこかの知りあいだろう。
イヴァンは、対して気にもしない様子だった。
ちらりと真啓が手紙を見て笑った。
「女性ですね…良い香りがします。」
その言葉にイヴァンは思わず、香りを嗅いだ。
「若い女性用の香水ですね。」
「ふん…。」
イヴァンは、テーブルの上に投げるように置いた。
「レストランの場所が書いてないという事は、ここにお越しになるという事でしょうかね。」
「…。」
イヴァンは、気にする様子も無く練習場へと、真啓と向かった。
…良かった…今日は何も言われなかった。
真啓は、イヴァンに指導される事なく、無事に練習を終え、ほっとしていた。
「真啓…ありがとうね。」
コンミスのバーバラだ。イヴァンの学生時代からの同期で、恋人だったとの噂もあった。
45歳はとうに超えているが独身で、そこそこ有名なバイオリニストだった。特に、女達に愛想を尽かされてからは、イヴァンの様子を心配し、家も近くなので様子を見に行っていると聞いていた。
「あの人が落ちぶれていくのを、見ていたくないの。」
バーバラは、悲しそうに目を伏せた。神童と讃えられていたイヴァンを、若かりし頃から傍で見続けて来たバーバラは、溜息をついた。
「僕もです…ステージに堂々と立っている、彼こそが、教授のあるべき姿です。…ところで、お話があるのですが…。」
真啓はにこにこしながら、バーバラを部屋の隅に呼んだ。
♬*.:*¸¸
イヴァンは、少し早めに家へと戻った。今朝の手紙が気になっていた。
…別れた女の誰かだろう。
イヴァンはワインを飲みながら、考え込んでいた。
―――♪~♪。
玄関のチャイムが鳴ったので開けて見ると、ニコニコ微笑んでいる真啓と,そのマネージャー、そしてバーバラが立っていた。
「お…お前達…。」
「説明は後からしますから、寒いので入れてくれますかね?」
真啓はイヴァンが、返事をする前に大きな体で、さっさと部屋の中へと入り、他のふたりもそれに続いた。
皆がそれぞれに大きな包みや紙袋を抱えていた。
「あのうぅ…お荷物はどこに置けば良いっすかぁ~?」
タクシーの運転手が、大きなラゲージバックをふたつ運んできた。
真啓はキッチンテーブルの上に荷物を置くと、慌てて戻って来た。
「あっ…すみません。玄関の隅に置いて頂けますか?バーバラそちらはお願い出来ますか?」
バーバラは戸惑いながらも、キッチンのテーブルの上で荷物を解き始めた。
「おい…真啓これは一体…。」
「ちょっとまだ荷物があるんで取りに行ってきます。」
真啓は玄関の階段を降りて、衣裳カバーを数点と大きなバックが新たに運び込まれた。
「これは…誰のだ?」
真啓は、運転手にチップを渡してありがとうと言いながら玄関のドアを閉めると、イヴァンに向き直ってにっこりと笑った。
「僕の荷物です。」
「な…。」
「いやぁ手違いで、マネージャーが取ってくれた、ホテルがブッキングしましてね。バーバラさんの家にと誘われたのですが、女性ですので、では近い教授のお宅はおひとりですし、大丈夫だろうと思いまして。」
あっけにとられる、イヴァンに矢継ぎ早に話を続けた。
「それでですね、今朝の手紙…本当はバーバラさんと僕とマネージャーで食事をとのことで届けて貰ったんですが、これまた手違いで、教授の家に届いてしまったようなんです。すみません…折角ですから温かいうちに食べましょう♪」
立ち尽くすイヴァンをよそに、皆はデリで買ってきたばかりの、パンや、おかず、サラダなどをテーブルの上に並べ始めた。
「はい♪お詫びのしるしに教授がお好きなウイスキーをお持ちしました。Evan Williams 23年ものですよ。」
「真啓…もう置くところが無いわよ…。」
バーバラは惣菜の置く場所が無くなり困っていた。
「適当に場所を作って置きましょう。教授の家広くて良いですね♪」
「全くっ…だから買い過ぎよ!って言ったのに。」
バーバラは大袈裟にため息をついてみせた。店であれもこれもと買っている真啓を何度も止めたのだが、聞く耳を持たず、大量に買い込んでいた。
「どれも美味しそうに見えたんですよ…少ないよりは良いでしょう?」
真啓は、悪びれもせず笑った。
「どうせ奥様におんぶに抱っこで、家事なんてしないんでしょう?だから適量ってものが判らないのよ…。」
バーバラは、ほうれん草のキャセロールを持ってリビングのテーブル置きながら、ぶつぶつ文句を言った。
イヴァンは皆が、広々としたキッチンで動き回るのを呆然と見ていた。
結局広いリビングのテーブルの上にも、料理が並べられた。
「キッチンシンクの…そこ…そこに置けば良いじゃない。あ!…そうだ!若い楽団員呼びつけちゃいましょう♪」
「えっ!」
バーバラは、ちらりとイヴァンを見た。いつもは物静かな真啓が、横柄で強引な態度を、見せたのは初めてで、イヴァンどころか、バーバラも困惑していた。
イヴァンは、真啓に圧倒されてしまい、真啓が言うんだから仕方が無いだろう?…と、バーバラに向かって肩を竦めた。
「3-4人ぐらい若手のバイオリニストでも呼んで下さい。」
真啓はテキパキと動き、イヴァンは勧められるままにテーブルに着かされた。
「昔、僕もそうだったように、お金も無くひもじい思いをしてるでしょうから、若い子達は、きっと喜んでくると思いますよ♪」
――― ♪~♪
皆が食べ始めて、数分も絶たないうちに、やってきた。
「バーバラ先生、教授お招きいただいてありがとうございます♪」「あー超助かった~バイトの給料入る前だから、今日の夕飯パン一個だったんだよ。」
がやがやと入って来て、それぞれが好きなものを好きなだけとって食べるのを、真啓はイヴァンの横で微笑みながら眺めていた。
「わっ…マヒロ・フシミだ。」
食べるのに夢中で、若者たちが真啓に気が付いたのは暫く経ってからだった。
「おおお~握手して下さい。」「1か月後の公演…俺観に行きます。バイト代超~溜めて頑張ったんっすよ。」
真啓は、にこにこ笑いながら若者達の相手をしていた。
「真啓が、来た時の事覚えてる?」
バーバラが、イヴァンの隣に来て囁いた。
「図体がデカいのに遠慮がちだし、大人しくてねぇ…大丈夫かしらと思ったのよね。」
ピアノ科の教授に真啓を紹介された時に、仰ぎ見るようにして話をしたことを、今も鮮明にイヴァンは覚えていた。
「姿勢が良くて礼儀正しくて、日本から侍が来たってねぇ…笑ったのよね。」
イヴァンは、懐かしそうに真啓を眺めていた。
「ああ…そうだった。あんな大きな手で、繊細にも大胆にも弾けてDoctor of Musical Artsを卒業もして、医者になるなんて、真啓は変わり者だった。」
イヴァンとバーバラは、顔を見合わせて笑った。
若手のバイオリニスト達は酒も入り、巨匠イヴァン・コンスタンティー二に臆することもなく話しかけ、目を輝かせながら、イヴァンの話を聞いていた。
真啓はキッチンの隅で、ビールを飲みながら窓の外を眺めていた。
…君は優しい笑顔の裏で、とても苦しんでいたんだね…そして教授も。
理紗が居た時には、毎日のように、誰かがこの家に出入りしていて、若手のミュージシャンに、明日食べるご飯が無いと言われれば、食事を持たせたり、家賃が払えないと言われれば、数週間宿泊させたりしていて、とても賑やかで笑いが絶えないような家だった。
あっという間に、数時間が過ぎた。
「さぁさぁ教授もお疲れだから、今日はこれぐらいにして…。」
バーバラがイヴァンの話を一生懸命聞き入っている若者達に声を掛けた。
「僕はここに1ヶ月ちょっと居るからね。いつでも好きな時に来なさい。ご飯ぐらい御馳走するからね。」
若者達から、歓声が上がった。
「お…おい…真啓…お前…公演が終わるまでここにずっと居座るつもりか!」
イヴァンが、驚いて声をあげた。
「ええ。僕が教授の身の回りのお世話をしますから。挨拶が遅くなりましたが、宜しくお願い致します。バーバラ先生。練習には遅刻させないように、責任持って教授のお世話をさせて頂きます。」
真啓は深々と頭を下げた。バーバラは、それを見て思わず笑いだした。
「真啓にやられたわね…良いんじゃない?昔の教え子に面倒見て貰えば。」
「お前が、こんなに強引な奴だとは思わなかったよ…全く…。」
傍についていたマネージャーも、つられて笑った。
「君…マネージャーだろ?離れてると不便だろうから、君も好きな部屋を使いなさい。」
マネージャーは慌てて断ろうとしたが、真啓がすぐに答えた。
「では…教授のお言葉に甘えさせて頂いて、どうぞ公演終了まで、宜しくお願いします。」
帰ることを渋り続けた若者たちを追い出した後、マネージャーとバーバラ、そして真啓で残った惣菜などを手早く片付けた。
「真啓…君は理紗が使っていた部屋を使いなさい。あそこならわたしのピアノがあるし、夜でも周りを気にせずに弾けるから。」
イヴァンは、静かに言うと真啓が頷いた。
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