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懐かしい香り
イヴァンは、朝6時に真啓に叩き起こされた。
「今日は、大学の講義も無いし、練習は午後からだ。もう少し寝かせてくれよ。」
眩しそうに目を開けた。
「この周辺が懐かしくて、一緒に歩きませんか?」
「ああ…もう明日にしよう!明日。」
「教授…何故、今日出来ることを、今日のうちにしないんですか?」
真啓に限って練習不足などは無かったが、イヴァンは良く生徒に、今日の練習は、今日中に済ませるべきで、明日に持ち越すなと、生徒達に言い聞かせていた。
「お前は…こんなにへそ曲がりだったか?ああ…そうだ…お前は学生の頃から頑固だったな…今思い出したよ。」
毛布を肩まで引き上げた真啓に背中を向けた。ベッドサイドに、真啓は静かに座っていた。
「…君は…一体いつまでそこにいるつもりだね?」
イヴァンは、大げさに溜息をついてみせた。
「教授が起きるまで、傍に居ます。」
真啓は、さらりと言ってのけた。
「あ~全く。君の女房は、こんな融通が利かない男が旦那で大変だな。」
イヴァンの嫌味を聞いても、真啓は知らんふりで答えた。
「それが…僕の方が、いつもだらしないと怒られる始末ですよ。本を片付けろだとか、靴下をその辺に置いとくなとか…尻に敷かれて、頭が上がりませんよ。」
「今頃、お前が家に居なくて、女房は羽根を伸ばしてる頃だな。」
「ええ…きっとそうだと思いますよ。」
真啓は笑った。
「音楽家の女房と言うのは、それぐらいの方が良いんだよ。恐妻家過ぎても困るがな…。」
真啓に、背中を向け乍らイヴァンは笑った。
…理紗は恐妻家でも無ければ、控えめで、それでいて芯はしっかりした女だった。
イヴァンは、理紗のことをふと思い出していた。
「近所のブリオッシュが、美味いと聞いたんですが。」
イヴァンに思い出に浸る暇も与えずに、真啓は再び聞いた。
「ああ…ここから10分程歩くがな。行きたいのなら一人で行っておいで。」
「それがですね…僕…持ち合わせが無いもので…。」
イヴァンは今度こそ真啓に向き直り、何かを言ってやろうと思ったが、真啓は空の札入れに、ずらりと入っているプラチナとブラックカードを見せて、にっこりとイヴァンに笑って見せた。
「嫌味な奴だ。」
イヴァンは諦めて、不機嫌に、のそのそとベッドから起き上った。
「朝はわたしが支払う。今夜の夕食はお前が払え。」
「はい…判りました教授。」
真啓は嬉しそうに笑った。
真啓は、毎日のようにイヴァンについて回った。一緒に大学へ行き、恩師たちに挨拶をして回ったりもした。世界的なピアニストの真啓が、自分について回り、慕い敬う姿に、イヴァンは悪い気はしなかった。
「君も練習があるだろう?家の事は手伝いを増やして、やってもらうことにしなさい。」
知らぬふりを装いつつも、真啓のことをイヴァンは気遣っていた。バーバラも真啓と、マネージャーが居るので、イヴァンに誘われ毎日食事を食べに来ていた。
冗談や憎まれ口を言い合いながらも、ふたりはとても仲が良さそうに見えた。理紗が居なくなってからというもの、影からイヴァンを支え続けて居たのは、バーバラだった。
🐈⬛
イヴァンと真啓の公演は、大盛況のうちに終わった。音楽雑誌は、こぞってイヴァンの完全復活を報じていた。
真啓は公演当日、打ち上げで数時間前まで飲み、殆ど寝ないままの、帰国となった。エアポートへ行くので、イヴァンの屋敷に、タクシーを呼びマネージャーと大きな荷物を、積み込んでいた。
「あの人が頑固なのは、バーバラ先生がよくご存じでしょうけれど、これからも、どうぞ僕の代わりに宜しくお願い致します。」
真啓は、バーバラに深々と頭を下げた。
「真啓…本当に…本当にありがとう…。」
バーバラは涙を浮かべながら、背が高すぎる真啓とハグをした。
「あら…イヴァンは?」
バーバラはキョロキョロと、屋敷の主の姿を探した。
「疲れたから寝るって、おっしゃってました。」
イヴァンも真啓と同じく飲んで騒いで、明け方近くに部屋へと戻っていた。
「全く…あの人は、真啓に散々世話を掛けて置いて、お礼も言わないなんて…。」
「今回限りじゃないですし、2年後の教授との公演もお陰様で決まりました。教授の怠け癖が出たら、僕を呼んで下さい。また住み込みでお世話しますから。」
真啓は茶目っ気たっぷりに笑って言った。バーバラがちらりと屋敷を仰ぎ見ると、カーテンの陰からパジャマ姿の、イヴァンがこちらを見ているのが判った。
「何気なく後で見て…。振り返っちゃ駄目よ…イヴァンったら窓辺でこっちを見てるわ。素直にお礼ぐらい言えば良いのに。」
バーバラが、くすくすと笑った。
「バーバラ先生。本当に教授のことを、お願いいたします。」
真啓は再びバーバラにお礼を言うと、車へと乗り込んだ。タクシーに乗り込んでから見上げると、イヴァンが、カーテンの物陰からこちらをじっと見ていた。
…教授は…きっとこれで大丈夫だ。
真啓が、運転手に飛行機の搭乗口を伝えると、タクシーは朝靄の中をゆっくりと走り始めた。
🐈⬛
「アメリカは、どうでした?学院にも寄ったんでしょう?バイオリン科のバーバラ先生はお元気だった?まだオーケストラでコンミスをされてるそうね。」
理紗がレコーディングで、一緒になった真啓に矢継ぎ早に聞いた。
「私も古巣でぜひ拝見したかったけれど…これじゃあ無理だからって、隆さんに止められてね、またの機会にしたの。」
大きく目立ち始めたお腹を擦りながら微笑んだ。そんなふたりの様子を、マネージャーがじっと伺っていた。
「どこのオーケストラ?指揮者はどなただったかしら?」
「えっ…と。ほら、君もちょっと在籍してたことがある●●交響楽団だよ。」
真啓は言葉を選びながら、ゆっくりと話した。
「あら♪ではあなたバーバラ先生と一緒だったの?!…で指揮者は?」
「えーっと…。」
言いあぐねていると、理紗が聞いた。
「どうしたの?」
「あーっと…イヴァン・コンスタンティー二教授だよ。」
理紗は、じっと考える様な仕草を見せたので、真啓が緊張した。
「理紗さん済みません。伏見の予定が詰まっているものですから、収録後の確認作業の時に、お話し良いですか?」
「あら…ごめんなさい。ついおしゃべりばかりしちゃって。そうよね…お医者さんと、ピアニスト…二足の草鞋ですもの。コンスタンティー二教授?初めて聞いたわそのお名前。そんな方いらしゃったかしらねぇ?」
そう言いながら、ピアノの前へと理紗は向かった。助け舟を出してくれたマネージャーに、真啓が眼でお礼をいうと静かに頷いた。
「医者も洋琴弾きも、どちらも中途半端で大変だけどね、やめられないんだよ。」
真啓も2台あるピアノのひとつに、ゆっくりと腰を掛けながら言った。
🐈⬛
「元気な男の子ですよ♪」
医者と看護師に拍手で迎えられた。産まれた直後は赤黒かった体が、大きな声で泣き出すとその名の通り赤色へと皮膚の色が変わった。10時間のお産は、初産では早い方だ。
「理紗よく頑張ったね。」
傍に付きっ切りだった隆が汗をびっしょりかいた、理紗の頭にキスをした。
「こんなにお産が大変だったなんて…暫くは産みたく無いわ。」
理紗が微笑んだ。小さめを心配されていた赤ちゃんだったが、3000gぴったりだった。
理紗が処置を済ませる間に、隆は赤ん坊を抱かせて貰った。皺くちゃで小さくて、目を眩しそうにギュッと閉じている赤ん坊は、誰に似ているのかすら判らなかったが、甘い香りがしてとても愛おしかった。
「思ってたよりも重たいんですね。お腹に入ってたんだもの、お母さんのお腹が大変なことになるわけだ。」
隆が呟くと、傍についていた看護師がそうですねと言って笑った。
――― 翌日。
面会時間よりも少し早めに隆は、病室に顔を出した。
「ちょっと…早いけど…個室だし…良いかなぁと思って。」
理紗は、丁度授乳が終わり、ゲップをさせているところだった。
「ほら…パパが来たわよ。」
理紗に、そう言われて少し気恥ずかしい隆だった。
「理紗?今日はあなたに会わせたい人が居るんだ。」
隆は理紗に静かに言い、赤ちゃんを慣れぬ手つきで抱きあげると、どうぞと病室のドアに声を掛けた。ドアはゆっくりと開いた。
「お父さん…お母さん…?!」
理紗は、驚いた顔をしたまま何も言えなかった。
「理紗…久しぶりだね。結婚したそうじゃないか…おめでとう。」
理紗の母親は、隆の腕の中にいる赤ちゃんを見ると、すぐに抱き上げた。
「あなたがお母さんだなんて…まぁ可愛いわねぇ。」
「理紗…あなたに言わなくて悪いと思ったけれど、僕はご両親を呼ぶべきだと思ったんだ。」
理紗の消えた記憶の中でも、親に勘当された事だけは覚えていたが、その理由をどうしても思い出せなかった。隆は、気を効かせて部屋を出て行こうとしたが、父親に、留まる様に言われた。
「お母さん…お父さん…わたし…記憶が…。」
「隆さんから、聞いたわ。」
母親が、うれし泣きをしながら言った。
「もう昔の事ですもの…良いのよ…。あなたも大変だったのね。」
理紗が勘当された理由は隆が想像していた通りだった。年齢がだいぶ離れており、女性問題が噂されていたイヴァンと一人娘でピアニストとしてこれからという理紗の結婚を両親は大反対した。それが原因で、理紗は、日本を離れアメリカで暮らす様になったとのことだった。
大切に理紗の母に、抱かれた赤ちゃんを、父がそっと眺めていた。
「…連絡を取らずに…ごめんなさい。」
「色々大変だったわね…。」「隆さん本当にありがとう。」
父親も母親も、静かに泣いていた。
♬*.:*¸¸
「理紗!届いたよ。」
郵便物と一緒に届いた小さな防水用の袋に入ったものを、おむつ替えをしている理紗に見せた。
父親は、仕事の関係ですぐに帰らなければいけないとのことだったが、理紗の母親は、理紗が退院後、1ヶ月程家で過ごした。
「まだ先だと思っていたのに…早かったわね。」
理紗の母親は、何かしらと言って隆が開けるのを傍で見ていた。
「宮子理紗…日本デビューCDです。」
「あらっ!!!」
母親は驚き、CDを手に取り表や裏を返して見ていた。
「お母さんを驚かせようと思って黙っていたの。妊娠中にね、伏見真啓さんとレコーディングをしたのよ。」
ベビーベッドに赤ちゃんをそっと寝かせながら理紗は笑った。
「まぁ~~そうだったの!!!真啓さんって…学院時代同窓生だった?」
「ええ…。」
「あら~~…本当。お父さんも喜ぶと思うわ!!おめでとう。今日はお夕飯にお寿司でも取ってお祝いしましょう。」
―――CD発売記念イベント。
事務所で理紗のイベントが開催された。日本では新人としてデビューした理紗だったが、アメリカでも同時発売されて、逆輸入の形で少しづつ人気が出て来ていた。
同じ事務所の真啓は、海外公演中で不在だったが、その代わりに、祝電とともに大きなフラワー・アレンジをよこした。学院時代の友人達からも沢山のメッセージや花が届けられた。
その中でも一際目立つ青いバラの大きなアレンジ。
「どなたからかしら?」
英語で書かれた直筆の手紙が同封されていた。
<日本でのデビュー おめでとう。今後の活躍を期待しています。 E.C >
隆は、イニシャルを見てハッとした。
…イヴァン・コンスタンティー二!!!
「E・C?お知り合いでそんな方いらっしゃったかしら?ねぇ…隆さん…この方ご存じ?」
理紗に振られれて隆は少々慌てた。
「ほら…あの…きっとアメリカのコアなファンじゃないかな…。日本よりも先行発売されたんでしょう?きっとそうだよ。」
「あら…嬉しいわね。青いバラ…大好きなのよ…でもどうして判ったのかしら?」
理紗は何度も手紙を読み返しては、思い出そうとしているようだった。
「…返信先が書いてないし、お礼状も書けないわね。」
手紙の封筒を裏返してみても、住所などは書かれていなかった。
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