ラーシュ (二)

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ラーシュ (二)

 宇宙に旅立ったクロエを見送ってからしばらく、ラーシュは忙しかった。  地球の全球凍結まで数十年。  生きものは世代を重ねて環境に適応していくものだ。人類は地球の変化についていけなかった。全人類を短期間にエクソダスさせるにも、全球凍結後の地球で生き延びさせるにもとにかく資源がまるで足りない。  地球行政府の発表した新フェイズはかつて国家が機能していた時代ならば戒厳令と呼ばれていた事態に似ている。  問題はこの戒厳が解かれる可能性がまずないことだ。  行政府は全人類の宇宙移民推進のために地球残留人民の財産をすべて接収した。この場合の財産とは動産不動産一切合切を指す。  新フェイズ発表前、居留地として機能している軌道エレベータアースポートを擁する主要都市ではパニックが予想されていた。行政府から極秘裡(ごくひり)に通達を受けていたためなんとか無事にクロエを見送ることができたが、その後のパニック終熄(しゅうそく)は容易ではなかった。  ここまでは財産をもって移住可能、ここからは財産そのものを持ってはいけない。  そんな線引き、誰が納得できようか。  グラスルーツの理念がぴんと来ない。  そもそも母親と幼いラーシュを捨てて出て行ったきりの父親が立ちあげた思想団体だ。三十年近く音沙汰のなかった父親が急死したからといっていきなりその置き土産に親しみが湧こうはずがない。  声高に表明はしないが、ラーシュは自分の代表としての仕事はグラスルーツの後始末をすることだと考えている。  父親に思い入れはなかったが、医師として困っている人を放っておけない。  地球で三都市まで減った人類居留地のひとつ、万聖街で思想団体代表の務めをこなしながら淡々とラーシュは暮らしていた。 ――駄目だ。いっしょには行けない。  告げたときのクロエの傷ついた顔が忘れられない。やんちゃで跳ねっ返り、小生意気なクロエの目が、ラーシュが愛してやまない燃える若葉色の目が、曇った。思い出すと胸が痛む。  思い出したくない。  でも、忘れられない。  微笑み、肌の香り、ラーシュの名を呼ぶ声――クロエのすべてが喜びであり、光だった。
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