洋食屋・ホルン亭

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洋食屋・ホルン亭

 雨にうんざりする六月。  大五郎が向かったのは洋食屋ホルン亭。湿ったズボンのポケットには、“ビーフシチュー・お肉が世界一やわらかい”と書いてある箸袋。 「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」  小洒落た雰囲気の店内は、昭和にタイムスリップしたような面影。壁に山の写真がいくつも飾られていて、お店の“ホルン”は楽器ではなく“マッターホルン”だと気づいた。  席は店の一番端。混んでいてここしか空いていなかったのを思い出したので。  メニューを開き、ビーフシチューの値段を見て驚いた。 「三千円……マジか」  もちろん今の財布の中にそれだけ支払う余裕はある。だが当時の母が、一人前で三千円を出すのは相当キツかったはずだ。 『母ちゃん、肉がヤバい!』 『どうヤバい?』 『消える! 口の中で超おいしいけど消える!』 『だろ~? ヤベぇよなビーフシチューは。お前野菜も食えよ』 『えー、にんじんデカすぎ』 『うるせぇ、食えっ』  今の彼にもなかなか手痛い出費のビーフシチューを注文し、やがて運ばれて来たそれは、食べなくても香りが既においしい予感を漂わせていた。  まずは牛肉を一口。肉は舌の上で消えたが、想い出は残る。  あの日、母は『せっかくのファッキン・デーなのに腹が痛ぇ』と言い、喫茶店みたいなツナサンドを頼んでいた。  今のメニュー表で単品のツナサンドは六百円。一番安い品だ。 「俺のせいで予算オーバーしたのか」  恐らく母は二人で最大三千円で見積もっている。定食屋だとそれで充分お腹いっぱいだからだ。あの日は少し見栄を張ったのか知らないが、全体的に値段の高い洋食屋だった。今となってはその理由は謎だが、一つだけ可能性があるとすれば。  彼はその前日、テレビのバラエティで焼肉の人気メニューを当てる企画を見ていた。 『母ちゃん、牛肉っておいしいの?』  何気ない一言だったが、母は息子が一度も牛肉を口にしたことがないのを不憫に思ったのかもしれない。  日常的には、カスみたいなひき肉とモヤシが多かった。そのひき肉にはおからが混ぜられていることが常。  それなのに自分は野菜を大量に残した。  残すと怒る母があの時はそれほど怒らなかったのは、母の腹の足しにもなったからかもしれない。  彼はポケットから箸袋を出すと、“肉の脂がとろける。大きな野菜は深みのあるソースが絡み食べ応えがある”と追記した。  皿にはソースの一滴も残らなかった。  大五郎のジャーニーは続く。  その後も毎月一軒、母との足跡を辿った。  残念ながら一軒だけ三年前に閉店している店があった。昨今の物価高の煽りを受けてはそれも仕方ないだろう。むしろ一軒だけだったのは奇跡な気もする。  箸袋の記述は、その一軒を除き十一枚の追記が成された。  想い出を探して、母の面影を追って一年。  彼はいよいよ明日、母と最後に行った店を訪ねる。  順不同で巡った店の中で、唯一意識的に後回しにしていた店だ。  その袋には何も書かれていない。  当たり前だ。自分で持って帰った訳ではないので。  これは恐らく、母が持ってきてくれたものだろう。  食べたメニューはハンバーグ定食。  これを最後に、大五郎は母と距離を置く。  小学校の時に大好きだった母は、中学に入ると急に汚いものに見えた。  今なら理由が分かる。  責任も取れないような男と、一夜の過ちを犯したのが許せなかったのだろう。  母のあっけらかんとした性格は、思春期に入り性の目覚めも十分自覚していた彼に、そっちの方に奔放に見えたのだ。  そして、貴重な母との七年を、失ってしまった。
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