これは虚構に近い、普通の恋

5/153
前へ
/153ページ
次へ
「うわ、びっくりした……! ……おはよう」  完璧に身支度を整えた私がひょいと現れたのを見て、お弁当におかずを詰めていた彼は驚いたらしかった。菜箸を動かす手が一瞬止まり、成人男性にしては薄い肩が一瞬跳ねる。その拍子にエプロンの肩紐が片方ずり落ちた。 「なんか今日ピンク薄くない? 調子でも悪いの?」  若葉くんが、空いている手で黒縁のメガネを押し上げる。落ち込んでる時や悲しい時、風邪を引いて悪寒がする時には、私の光量と桃色は薄まる傾向にある。  その問いかけに私は首を左右に振った。 「ううん。一晩中冷房つけっぱなしで寝ちゃったから、ちょっと体が冷えただけだと思う」 「あー昨夜、暑かったもんね。お弁当もうちょっとで出来るから。朝ごはんもう少し待ってて」  寝落ちしたから電気もつけっぱなしだったけどね、という言葉は飲み込む。電気代がもったいないとか小言を言われそうだ。若葉くんはずり落ちた肩紐に気づかず、またお弁当に向き直った。  若葉くんは私のお母さんの弟で、つまり私の叔父に当たる。彼との平和な同居生活は今年でもう七年にもなる。同居を始めた頃には小学生だった私も中学生になり、大学生だった若葉くんも立派なアラサーになった。  私は彼のそばに寄り、二の腕辺りに下がった肩紐を元の位置に直してあげて、そして気づいた。エプロンの下は、着古したカラーTシャツではなく、アイロンのかかった白いワイシャツだった。しかも、すらりと細い脚には紺のスラックスを穿いている。明らかによそ行きの格好だ。 「若葉くん今日、打ち合わせなの?」 「そう。編集の人が来てくれるから、会ってくる」  若葉くんの職業は、専業の漫画家だった(主夫じゃないよ)。 「またわざわざ東京から秋田まで来てもらうんだ……。なんか申し訳ないね」 「それはそうだけど、僕は東京行けないし、仕方ないじゃん」  ちょっとムッとして、若葉くんは菜箸でミニハンバーグを弁当箱の隅に詰めこんだ。若葉くんが無名な新人作家だったら、飛行機で片道一時間もかけて編集者が出向いて来てくれたりはしないんじゃないかなと思う。
/153ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加