エレベーターで下りただけ

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エレベーターで下りただけ

 通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。 「……もしもし。翔(かける)?」 「あ、なんだ電話出るんじゃん。メッセージ既読なのに全然返事こないから心配してたんだよね。もし返事できない状態だったらどうしよって思って」 「あー……うん、ごめん。心配させるようなことは特にないんだけど」 「は? 嘘でしょソレ」  急に低くなった声が聞き慣れなくて、思わず小さく息を呑んだ。  今の会話のどこに嘘だと思われるところがあったのか分からず、平静を装いながら努めて明るく声を出す。 「……っも、なんで? 急に怖い声だしてどうしたの? 嘘ってなにが……」 「今日休みだったし、心配で姉ちゃんの家まで来たんだよね。とりあえず直接話聞いた方がいいと思って」 「へ……?」 「部屋、なんか工事中みたいになってんだけど。なにあれ」  言われたことを理解すると同時に、手の平にぶわりと冷や汗が滲みだす。  家族が私の部屋を見に来たことなんて引っ越しをした初日だけで、それから遊びにきたことなんて一度もない。  移動を躊躇うほどの遠い距離ではないけれど、私が住んでいるのは実家から隣の県にあたる場所だ。  黙っていてもバレないと高を括っていたし、結人のことをどう説明していいのかも分からず、火事になったことは一切家族に報告していない。数か月で元に戻るし、変に心配をかけるくらいなら話さない方がいいと思っていたのだ。  話したら、しばらくどこに住むんだと細かく聞かれていたと思うし、会社の人にしたように半分嘘の説明をして誤魔化すことは難しい。心配だから一度様子を見に行くなんて言われたら、断る理由に困る。  だからといって、素直に結人の部屋を借りているなんて話も出来ないと思った。  婚約を破棄する際の話し合いは父親に全部押し付けて、結人を避けるために学校まで翔の運転する車で送迎してもらったりしていたのだ。あの頃の私が、家族に散々迷惑をかけていたという自覚はある。  偶然再会して改めて親しくなり、今はそれなりに友好な関係を築いていますなんて、色々と協力してもらった二人にどう説明したらいいのか分からなかった。  しかし、そうやって保身に走った結果、今は自分の首を絞める事になっている。 「……ごめん。翔は今どこにいるの?」 「だから姉ちゃんの部屋の前だって。どこにいるのって、そんなの俺の方が聞きたいんだけど」 「分かった。直接会って色々話すから、そのまま待ってて。すぐに行く」 「は? すぐにってどのくらい……」 「本当にすぐだから」  それだけ言うと一度通話を切り、簡単に身支度を整える。  洗顔を済ませて服を着替え、化粧はせずに髪だけさっと整えて家を出た。  持ち物は鍵と携帯だけ。目的地はエレベーターで少し降りただけの場所だ。移動時間なんて二分も掛からない。 「翔」  私の部屋の前で大人しく立っている弟を見つけ、声を掛けると明るいブラウンの髪が少し揺れてこちらに振り向く。  まだ少し幼さが残る分かりやすい表情からは、先ほどの電話で一瞬だけ聞こえた低くて冷たい声なんて全く想像できなかった。 「わ、ほんとに早いじゃん。近くで買い物でもしてた?」 「あー……えっとね、家にいたのはいたんだけど、その事もちゃんと説明したくて」 「家ってここじゃなくて? まあ、なんでこんな風になってんのか知らないけど」  もともと私が住んでいた部屋を指で指しながら翔が尋ねる。  濡れた床や壁の清掃はされたけれど、焦げた物はまだそのまま置いてある部屋だ。壁紙の張替も終わっていないし、キッチンも使える状態ではない。  ちょうど業者が入る日だったのか、部屋の扉は全開にされていて中の様子が見える。  一応修繕は進んでいるのだろうが、まだ人が住める状態ではなかった。 「……下の部屋で火事があって、少しだけ巻き込まれたの。今は近くの部屋を期間限定で借りてるんだけど」 「あ、そうなんだ。じゃあちょうどいいや。久しぶりで色々と話もしたかったし、部屋あがっていい?」 「え? あ、や、それは困る……!」 「なんで? 近いんでしょ?」  確かに近い。エレベーターで最上階に向かえば到着だ。  こんな場所で立ち話をするのは邪魔になるし、近くに自宅があるなら普通は家族を招くだろう。  しかしそこは結人の部屋で、私はただの居候なのだ。勝手に自分の客人を入れていいわけがない。 「……その、翔はお腹すいてない?」 「え?」 「近くにファミレスあるから、座って話すならそっちでいい?」 「まあ、それは別にいいんだけど……いくら姉ちゃんでも火事のこと黙ってるの変だし、やっぱ何かあったでしょ」 「え、あ……まあ、少しだけ……」 「まあいいや。立ってする話でもないし、移動してから話そ。どこ? 連れってってよ」 「あ、うん。行こっか」  部屋に行きたいと押し切られなかった事に安心して、今度は翔と二人でエレベーターに乗り込み一階のボタンを押す。  どこまで話していいのか、何から話すべきなのかと、そんな事を考えながらファミレスに向かった。  とりあえず、昨夜送られてきたメッセージの件を詳しく聞くのが先だろうか。結人の親だけじゃなく、翔がどう思っているのかも事前に知っておきたい。  色々と話を聞いてから、翔にどこまで説明するのか決めよう。  移動中は簡単な近況報告で受け流しつつ、頭の中でそんな結論を出した。  この時の私は目の前の出来事を処理するだけで頭がいっぱいで、帰るまでちゃんと部屋で待っててと結人に言われていたことなんて、完全に頭から抜け落ちてしまっていた。
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