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誤解されたくないだけ
その日の就業後も、結人が迎えに来てくれる事になっていた。
少し残業になるかもしれないと事前に伝えてはいたけれど、買いたい本があるから読みながら待ってるよと結人に言われ、会社近くのブックカフェで落ち合うことになっている。
定時から一時間を過ぎてからタイムカードを押し、待ち合わせ場所まで早足で歩く。
会社から徒歩十分もかからない場所にブックカフェはあり、結人との待ち合わせ場所として使うようになる以前から、私は仕事帰りによく立ち寄っていた。
駅から近くて立地も雰囲気も良いこのお店は、理由もなく暇を潰しに来ているお客さんも多い。
だからこそ、純粋に本を探しに来ている人以外もいるわけで、こういう現場に遭遇してしまうことも、今回が初めてではなかった。
「悪いけど、彼女待ってるところだから」
聞こえてきた声の方向に視線を向けると、店内の隅にあるソファ席に結人が座っているのが見えた。
その隣には綺麗な女の人が立っていて、スマートフォンを片手に可愛らしく小首を傾げる。
「えー? でも結構長い時間ここにいるみたいですし、もしドタキャンとかされて暇になる可能性があるなら、後からでもいいから連絡とか……」
「そんな可能性はないし、万が一暇になったとしても直ぐに帰るよ。恋人に誤解されること、何一つしたくないんだよね」
にっこり笑って言っているのに、その声はどこまでも冷たく感じる。
これ以上言わないと分からない? とでも言いたげに笑顔で牽制して、相手が引いたのを悟ると同時に、結人は手元の本に視線を戻した。
一人で座って本を読んでいるだけなのに、つい目で追ってしまうほどの魅力が結人にはあると思う。
そんな人が近くにいるのだから、何もしないで見ているだけなんて勿体ないと思う人だっているのだろう。行動を起こさないとチャンスはやってこない。
相手のそんな考えが分かるからだろうか。結人の方も慣れた調子で、軽く断って流している。
結人が女性から声を掛けられている現場を目撃するのは、今回で三回目だ。いつも遠くから見ているだけで何も出来ないけれど、それに関して結人から言及された事は今まで一度もない。
私が何かをしなくとも結人は軽く躱しているし、私が助けに向かう必要なんてないのだろう。
だけどそういう現場に遭遇する度、私は足が竦みそうになる。
私が見ている場面なんてほんの一握りで、私の知らないところでも沢山の女性から結人は誘われているのだ。そこに近付いて声を掛けるのが私なんかでいいのかと、こういう事がある度にいつも不安になってしまう。
「あの、ごめん結人、待たせて……」
いつまでも立ち止まっているわけにもいかず、ゆっくり近付いてから声を掛けると、本に向けられていた視線が上を向いた。
その瞬間にふわりと綻んだ表情や私に向ける声は、さっきの女性に向けるものとは全然違う。
「ううん、全然。謝られるほど待ってないよ。仕事お疲れ様」
嬉しそうに緩む表情を真正面からくらってしまい、喉の奥で小さく息を飲み込む。
心臓の辺りにぶわりと熱が広がった気がして、ぐっと拳を握ることで熱を逃がした。
本屋を後にして、結人が運転する車で家に帰り、夕食を作ってから一緒に食べる。片付けをしたりテレビを見ながら時間を過ごしたあと、順番にお風呂に入って寝るための服に着替えた。
いつもと同じ過ごし方をしているだけなのに、気を抜くとすぐに結人の言葉を思い出して熱が返ってきてしまう。
正直、今日の現場を見てしまったのは失敗だったし、今の私にはあんなの完全に毒でしかない。
女性に誘われている現場を見たのは初めてではないけど、どういう会話をしているのか聞いたのは今回が初めてだ。
――恋人に誤解されることをしたくないと、結人は確かにそう言っていた。
私と結人は付き合っているわけじゃない。
だけどあの時結人が言っていた「誤解させたくない恋人」というのは、十中八九私のことだろう。そこを勘違いするほど私は鈍くはない。
私がいない時でもそんな事を言ってくれるくらい誠実で、真っ直ぐに想ってもらえて大事にされている。そのことを素直に嬉しいと思ってしまって、今でもこうやって思い出す。
本当に、どうすればいいんだろう。
一度逃げて散々周りに迷惑をかけた私が、今になって結人と付き合いたいなんて都合のいい事を言うべきじゃないと思っていた。
それなのに、私がやっていることは全部が中途半端で、結人がしたいと言ってるからと自分に言い訳ばっかりしながら、恋人のような距離感のまま同じ部屋で生活している。
寝る前にキスをするのはとっくに日常になってしまって、これを嬉しいと思ってしまうのは私だって同じだ。
今日もこうして、お風呂あがりのソファの上で結人が私の頬に触れる。
大きな指が私の髪を撫でて、緩く抱きしめられるだけで鼓動がいつもより早くなった。
そのままゆっくりと触れた唇は柔らかくて、口内を撫でてくれる舌は優しくて気持ち良い。
付き合ってないからと逃げ道を用意したままこんな事を続けるのは、やっぱり狡くて駄目だと思う。
「結人……」
まだ名前を呼んだだけなのに、喉の奥で言いたい言葉が絡まっている気がする。
上手に声が出せるようになるまでじっと結人を見つめていると、結人の瞳が僅かに揺れた。
今日は、キスしてそのままおやすみなさいじゃなくていい。
これだけで終わりにしたくないのだと伝えようとして、少しだけ言葉に迷って口を動かす。
「あの……結人の寝室、移動したくて……」
絞り出した言葉は、ちゃんと結人の耳に届いたのだろう。小さく息を飲んだことが分かって、返事を待つ時間が酷く長く感じる。
相手にどう思われているのかを、ここまで気にするようになってしまったのはいつからだっただろうか。
人を嫌うには理由が要るけど、好きになるのに理由は要らない。
この人を好きになろうと思って、そこから恋に落ちるわけではないのだ。
もちろん、色んな積み重ねや諸々の理由が恋に発展する事もあるだろうし、どうにか好きになろうとして恋する前からお付き合いが始まる事もあるだろう。
だけど私は好きになんてならない方が正しいと思っていたのに、結局こうやって好きになってしまった。
結人が嬉しいならなんでもしたいと思ってしまうくらいには、私はもう、とっくに結人に落ちている。
「和音?」
「今日、 あの……これ以上のこと、したいなって……」
「は……?」
「だ、だめ? そういう気分じゃない?」
「いや、駄目じゃないけど、えっと……理由聞いていい?」
理由なんて、結人を好きになってしまったという、それだけのシンプルなものだ。
だけどそれだけじゃ、きっと結人が私を抱いてくれる理由には足りない。
「色々考えて、結人とそういうのしたいって思ったから……その……」
セックス出来るか分からないという理由で、ずっと付き合うことを拒んできた。
だからちゃんと出来るよって行動で伝えて、いっぱい触って、言葉だけじゃなく全部を使って好きだって言いたい。
頭の中で並べてみるとあまりにも恥ずかしい告白で、声にするのを躊躇ってしまう。
どうにか絞り出せたのは「最後までしたい」という一言だけで、それすらも酷く震えた声になった。
「……本気?」
「ほ、本気だよ。嘘でこんなこと言わない」
「和音がそう言ってくれるのは嬉しいけど、何か無理して言わせてるだけなら違うし、別にいきなり全部しなくてもい……」
結人の言葉を最後まで聞くよりも先に、私から顔を近付けて口を塞いだ。
ただくっつけて直ぐに離れただけのキスだけど、結人の行動を止めるにはそれだけで十分だった。
「……結人はキスだけで足りるの?」
「は……」
「わ、私は全然、足りないって思った……」
結人に気持ちを伝えるには。結人がしてくれた事を返すには。
言葉で確認を取ってキスをするだけじゃ、全然足りないし釣り合わない。
恥ずかしくて泣きそうで、だけどここで泣くのは違うと思ってぐっと耐える。
これ以上、どう言えばいいんだろう。そんな事をぐるぐる考えていると、私よりも先に口を開いたのは結人の方だった。
「……足りないよ。ずっと、足りてない」
私よりも結人の方が、ずっと泣きそうな声をしている。
こつんと優しく額がぶつかり、今度は息が触れる距離で、結人の声が鼓膜を揺らす。
「……どこまでしていいの?」
「え……?」
「教えて。和音が嫌なところまではしないから」
「あ、えっと、最後まで全部……の、つもりで……」
ただ質問に答えているだけなのに、言ってて恥ずかしくなってきた。
「最後まで、全部?」
「あ、だから……」
どうしよう、これ。結構勇気を出して言ったつもりだったのに、細かく言わないと伝わらない?
セックスしようとか結人の挿れて欲しいとか、そこまで言わないと駄目だろうか。
相手が結人なら、本当になんでも全部大丈夫なのに。
「結人が考えてること全部、大丈夫だから……あの」
「……うん。俺の解釈で進めるから、嫌なら止めて」
至近距離で視線が絡んで、もう一度唇が触れる。嬉しそうに緩んだ瞳が見えて、それだけでじわじわと心臓の辺りが締め付けられているような感覚に陥る。
キスの仕方がいつもより少しだけ性急で、結人の息にも熱が滲んでいた。
「っは……ゆい……」
「……ごめん。ベッド行こう」
数年前はあんなにも怖くて嫌だったこの台詞が、今は息が止まりそうなくらいに嬉しくて、なぜだか少しだけ泣きそうになった。
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