親愛だと思っていた

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親愛だと思っていた

 私、篠崎和音が結人と初めて会ったのは、もう二十年近く前になる。  父が連れて行ってくれた、社員の家族も参加できる会社主催のイベントで、当時五歳だった私は同じ歳の結人を紹介された。  福利厚生の一環である、家族サービスを兼ねた社内イベント。私たち以外にも何人か子供が参加していて、パンを作ったり絵を描いたりして遊べるようになっていた。  今でも毎年行われているらしいその催しに私が参加したのは三回だけだが、そこで仲良くなった結人とは小学校が同じで、学校が終わってからも互いの家に遊びに行ったりしていた。  男女の溝が出来るような年齢になってもそこはあまり変わらず。周囲に変な揶揄い方をされても、「気が合うし楽しいから一緒に遊びたいだけだよ」と結人は皆の前で言ってくれて、そのお陰で変に距離を置くこともなかった。  年齢を重ねていくうちに、仲の良い幼馴染の父親がただの上司ではなく、父が勤める会社の経営者だという事もなんとなく理解していったけれど、だからといって子供にそんな事は関係ない。  結人の両親から遊ぶのを咎められるような事もなかったし、幼い頃に母親を亡くした私を気遣ってくれているのか、むしろとてもよくしてもらっていたと思う。  親の仕事の立場なんて自分には何も関係ないと思っていたし、意識すらしていなかった。  挨拶や顔見せだと言って、結人は大人が参加するようなパーティにも小学校の高学年になる辺りから顔を出していたけれど、まだ小学生なのに大変だなとか、その日は遊べないから少し寂しいなと私は呑気に思っていたくらいだ。 「大きな会社の後継者」よりも先に「仲の良い幼馴染」という認識があって、特別凄い人だというようには思っていなかった。勉強も運動も得意な結人を凄いと感じることはあったけど、それだけのこと。大きな会社の跡取りだからどうこうという認識は無く、私としては対等なつもりだったのだ。  幼い頃から一緒にいる特別仲の良い友人で、向こうも私の事をそう思ってくれていると思っていた。  だからこそ、大切な友人の力になりたいと思ったのは当然の事で、結人に持ちかけられた相談事に私は何の迷いもなく返事をした。  高校生になっても変わらず互いの家に行き来する仲だった私に、「この歳で勝手に結婚相手決められるとか最悪なんだけど」と結人が零したのが始まりだ。  簡潔にまとめると、政略結婚の相手を宛がわれそうだという相談で、時代錯誤なことに結人にはいくつも縁談の話がきているらしい。それを理由もなく断るのはかなり骨が折れるそうで、だから私に協力して欲しいと、そういう内容の話だった。 「だから和音がなってよ。俺の婚約者」 「へ……?」 「好きでもない女と結婚するとか死んでも嫌だし、見合いなんてしたらその時点で勝手に話進められそう。俺が大丈夫だって思えるの、和音しかいないんだよね」  珍しく不安そうな顔をした結人に「無理?」と聞かれ、即座に「無理じゃないよ」と返事をしていた。  要するに、体よく縁談を断る女除けになって欲しいという話だろう。  幼馴染である私の贔屓目なしに見ても、結人は凄く格好良く成長した。見た目だけじゃなく、模試や部活でも優秀な成績を修める結人は何かと目立つ存在で、人当たりの良い性格も相まって、相当モテることは私でも知っている。  お断りするつもりでお見合いの席に行ったら、更に気に入られて面倒なことになるという結人の言い分はよく分かるのだ。  だからこそ、こんな事を頼んで大丈夫だと思えるのが私くらいしかいなかったのだろう。下心を持って結人に近付きたいと思う女性は多いから、たとえ女除けの偽装婚約だと最初に説明したとしても、その立場を利用して色々話を進められてしまうのかもしれない。 「そういう話、結人が私にしてくれるの嬉しい。えっと、私は結人の婚約者ですって言えばいいの?」  結人が私を信頼してくれているのが嬉しくて、不安そうな表情の結人を安心させるように笑いながら訊ねる。  そこまで言ってようやく安心してくれたのか、小さく息を吐いた結人が分かりやすく表情を緩めた。 「……ありがとう。断られたらどうしようかと思ってた」 「どうして? 結人が本気で困ってるなら私だって力になりたいし、断ったりしないよ」  結人の信頼にちゃんと応えたい。どういう形でも力になれることがあるなら喜んで協力する。  結人が私を信用してくれているのと同様に、私も結人の事を信用していたのだ。ある程度落ち着いたら、上手にこの関係を解消する算段がついているからこんな提案をしたのだろうと、言われてもいないのに勝手にそんな事を思っていた。  私なら大丈夫だと言ってくれたことが嬉しくて、今思えば軽率に返事をしてしまったと思う。  婚約者って何をすればいいのと聞いたら、面倒な手続きがあるわけじゃないから大丈夫だよと言ってもらえたのも、私が軽率な返事をした一因だった。  婚約者といってもそういう肩書がつくだけで、縁談の話を断る盾くらいの気持ちでいたことが色々と間違いだったのだろう。それこそ最初はほとんど何の変化もなかったし、そのせいで関係を長引かせてしまったことも状況を悪化させた。  誘われる時に「デートしようか」と結人が言うようになったけど、それも言い方が変わっただけ。今まで通り二人で一緒に遊びに行くだけだったから、良い関係を築いているアピールなのかな程度の受け取り方しかしていなかった。  二人で会う回数が今までよりも少し増えたくらいで、本当に全てが友達とする事の延長だったのだ。  変わった事と言えば、結人の両親から「うちの子をよろしくね」と少し改まって言われた事くらいだろうか。いつもお世話になってる人にまで嘘を吐くのは少し心苦しかったけれど、ここで真実を話したら仮の婚約者になった意味がなくなってしまうから、「こちらこそよろしくお願いします」と深々頭を下げた。  後々婚約を破棄することになっても、その時は結人が上手に説明してくれるだろうと呑気に考えていたのだ。  結人が自分の意志で結婚したいと思う人を見つけるまで。  もしくはもう少し大人になって、望んでいない縁談をハッキリと断れるような立場になるまでの期間限定の婚約者。  そのくらいの緩い認識でいた私が、おかしいなと思い始めたのは婚約者になって半年が経った頃。いつも通りに結人の部屋で過ごしている最中、初めてキスをされた時だった。 「……へ?」  キスといっても、ほんの数秒唇が触れた程度の軽いもの。  しかし一瞬のことだったからこそ意味が分からず、唇が離れて直ぐに私の口から漏れたのは、ただ困惑しているだけの間抜けな声だった。 「……嫌だった?」  気を使うようにゆっくりと訊ねられ、しばらく考えた後に首を横に振る。  嫌かどうかと聞かれると、別に嫌ではなかったという答えになってしまう。ただ急で驚いたという感情の方が強かったし、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。  それにしても、こういう聞き方をしてくるということは、これは事故ではないのだろうか。そんな事を思っていると再び唇が塞がれ、柔らかく潰れたと思った瞬間すぐに離れた。 「そっか。嫌じゃないなら良かった」  優しく目を細めた結人にそう言われた瞬間、ビリビリと胸を駆けたこの感情をどう表現すればいいのだろうか。  息をするのが苦しくて、ぐっと胸が詰まるような感覚。結人が柔らかく笑ってくれただけなのに、心臓の辺りがソワソワする。  これ以上ここにいたら変な空気になりそうで、そうなる前に早く帰って頭の中を整理したい。そう思うと同時に体が動いていて、結人と距離を取りながらゆっくりと声を絞り出す。 「あ、えっと……結構長居したし、今日はもう帰るね……」  私のその行動を、結人がどう受け取ったのかは分からない。しかしそれを気にしている余裕なんて私にはなく、送ろうとしてくれたのを断って、逃げるようにして一人で部屋から出た。  帰路の途中も家に帰ってからも同じことを何度も考え、その度に苦しくなってぎゅっと目を瞑る。  恋人同士がする行為の中では軽い方の接触で、ただ唇を合わせただけと言ってしまえばそれまでだ。  ただ興味本位でしただけの事かもしれないのに、この行為に深い意味を見出そうとしている自分が怖い。  友達の話を聞いたり少女漫画で読んだりして、してみたいと思ったことは私にも何度かあった。同じように結人が考える事があったとしたら、その対象は私になるのだろうか。確かに、いくら軽く触れるだけとはいえ、婚約者以外とキスなんてしたらマズイのは分かる。  だけど、それをどう受け取ればいいのかが分からない。  幼い頃からの延長で、手を繋いだり戯れる感覚で抱きついたりと、そういう触れ方は今までもしていた。口同士が軽く触れただけで、急に意識するようになってしまう私がおかしいのだろうか。  どういう受け取り方をすればいいのかちゃんと聞きたい。だけどもしそれを聞いて、私が変に意識した事が透けてしまったらどうしよう。  恋愛関係にならないから大丈夫だと、そういう信頼を向けてくれているならちゃんと応えないと駄目なのに。一瞬とはいえ変な想像をしてしまったのは、結人に対する裏切りになるような気がする。  何を言っても気持ちが漏れてしまう気がして、僅かに湧いた気持ちにとりあえず蓋をしようと必死だった。  翌日顔を合わせた結人は普段と何も変わらなくて、たったあれだけの事を引きずっているのはどうやら私だけらしい。それなら私も今まで通りにするべきなのに、以前なら何も感じなかったはずの距離が妙に近いように感じてしまい、心臓のあたりが落ち着かない。  気にし過ぎているのが自分でも分かるのが恥ずかしくて、少し触れられるだけで変に緊張してしまうのが情けなかった。  こんなに意識してしまう状態なのに、今まで通りになんてできるわけがない。  もちろん嫌いになったとかそういうわけではないし、結人が必要だと言ってくれるなら婚約者役はまだ続けるつもりだ。それでも、今まで通り結人と一緒にいるためには、一旦距離を置いて気持ちを落ち着かせる必要がある。  そう判断したものの、「変に意識してしまうから一旦距離を置きたい」なんて直接言うことは出来なかった。  別の友達と遊ぶから、先に約束をしているからと理由をつけて結人の誘いを断り、結果的に分かりやすく避けるような形になってしまったと思う。  そんな態度を結人が良く思わないのは当然で、自分が間違った対処の仕方をしたのだと気付いた時にはもう遅い。  結人が私の行動を制限し始めるようになったのは、恐らくそこが始まりだった。
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