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不誠実で最低だな
「和音?」
水の入ったグラスを片手に戻ってきた結人に声を掛けられ、思わずスマホを落としそうになる。
幸いにも結人からは、服で隠れてスマホが見えなかったらしい。「着るとこだった?」と尋ねられ、小さく頷きながらスマートフォンを一度床に置いた。
下着とカットソーだけを慌てて身につけ、丸まっているズボンの下にスマホを隠して立ち上がる。
「ちょうど着替えようとしてたところで、タイミング悪くてごめんね。お水ありがとう」
持ってきてくれた水を受け取って、ベッドの端に腰を下ろす。
一口飲み込んで喉を潤すと、嬉しそうに瞳を細めた結人が私を見つめていた。
あんな事をしたばかりという事もあり、どういう顔をすればいいのか分からない。
「か、顔見られるの、恥ずかしくて困る……」
「えー……? だって何してても可愛いから、見逃すのもったいない」
そう言いながら伸ばされた指に髪を掬われ、含んだばかりの水を吹き出しそうになってしまう。
どうしよう。表情とか声とか全部、今まで以上に結人が甘い。
普通ならこのまま雰囲気に流されて、イチャイチャする方が事後らしい行動なのだろう。
だけど私には考えないといけない事が色々あって、こんな状態で結人に甘えるなんて出来ない。
結人に関わる人達が私をどう思っているのか、考えるだけで多方面に申し訳なくて、指先が冷たくなっていく。
とにかく今は早く弟に詳細を聞くべきだ。結人の親がどういう話をしていたのか聞いて、そこから自分の行動を考えなくてはいけない。
見つめられている事に居心地の悪さを感じながら水を飲み干し、空になったグラスを持って立ち上がる。
一瞬不安そうに揺れた結人の目を、どうしても見つめ返す事が出来なかった。
「急に立ち上がって、どうかした?」
「あ、えっと、お水ありがとう。落ち着いたし、今日はもう部屋に戻ろうかなって」
「……戻る? なんで?」
「え……? あー……その、普通に一人の方が広くベッド使えるし、邪魔にならないようにしたいなって」
「邪魔なんて思わないから、こういう時くらい一緒に寝て」
グラスが取り上げられて、サイドテーブルにそれが置かれる。手首を掴まれてベッドに転がされると、そのまま結人の腕の中に閉じ込められてしまった。
「あ、あの……」
「和音さ、ちゃんとゴムつけて欲しいなら、電気消してとか言わない方がいいよ」
「へ……?」
「本当に付けてるか分からないでしょ。暗いのをいいことに付けてるフリしてるだけかもしれないけど、確認しなくて大丈夫?」
なんでこのタイミングでそんな事を言うのか分からず、少し冷たくなった声が耳に残る。
確認なんてしなくても、ああいう事をしている最中に、結人が私に嘘をついたりしない事なんて知っている。
「え? あの……だって結人が付けてくれるって言ったら、付けてないはずないから……」
「……そうだね、ちゃんと付けてるよ。和音が嫌がることしない」
抱きしめる腕に力が入れられ、結人の肩口に顔が埋まる。耳元で零される声は少しだけ震えているのに、それをどんな表情で言っているのかは見せてくれなかった。
「だけど急に壁作られると、ゴムなんて付けなきゃよかったなって思う。その方が和音のこと縛りつけておけるのかなとか考えて、本当、自分のこと嫌になるよ」
「結人……?」
「また俺から逃げようとしてるのかと思った。そういう顔してるから」
全てを見透かされているようで、思わずひゅっと喉が鳴った。
自分がどんな顔をしていたのかなんて分からないけれど、セックスした直後には相応しくない表情をしていたのだろう。
軽い気持ちでセックスなんてするべきじゃなかったと、さっきの私はそんな事を考えていた。
「……ごめん。あの、でも、一緒に寝るのが嫌だったわけじゃないから……」
これはその場凌ぎの嘘などではなく、私の本当の気持ちだ。
実際にあのメッセージを見ていなければ、そのまま結人と一緒に寝る流れになっていたと思う。
早く返信して詳細を聞きたいと、そう思って選択した行動だった。結人と一緒にいたら自分のスマホを見ることさえ出来ないと、それだけしか考えていなかったのだ。
「逃げるとか、そんな風に思わせたかったわけじゃないよ。不安にしてごめん」
「……うん。和音がそう言ってくれるなら、今はそれでいいや」
安心したように息が吐かれた後にぎゅっと抱き込まれて、罪悪感で呼吸が止まりそうになる。
嘘は吐いていないけど、本当の事も言っていない。私は大事な事を曖昧にしたまま、今日をやり過ごそうとしているのだ。
最低な事ばっかり考えて、逃げ道を残している。
今の私はまだセックスをしただけで、付き合おうとは一度も言っていない。
嘘は吐いてないから、まだ言い訳が出来るのだ。
セックス出来るかどうか試しただけだという、最悪な言い訳が。
(……結人に触ってもらうの気持ち良くて、本当に最悪だ)
触れる体温が心地良くて、私を抱き締める腕の重さが嬉しい。
だけどこれは、私が受けるべき優しさじゃないのだ。
結人に抱かれて嬉しいと思う人なんて、私以外にもたくさんいる。
自分が過去にした事を考えると、こんなに優しく抱き締めてもらえる資格がない事くらい、誰の目から見ても明白だった。
このまま結婚をしないで、ただ付き合うだけの関係でいるなんて無理だろう。
高校生の時から結人は縁談を申し込まれていたし、櫻川グループの後継者が、この年齢で決まった相手もいないなんて大問題だ。
私が婚約者役を引き受けるなんて話をしなければ、当時決まっていた別の婚約者と既に結婚していたっておかしくない。
最悪のタイミングで婚約を破棄して、双方の親に面倒な話し合いを押し付けたのは私なのに、今になって「偶然再会して好きになったからヨリを戻したい」なんて言い出すの、都合が良いにも程がある。
そんな都合が良い事をしようとしていたのだ、私は。
結人が好きだと言ってくれる事に甘えて、結人のご両親も優しい人だから、二人で決めた事だと話せばきっと分かってくれると都合の良い妄想をして、深く考えずに結人に気持ちを伝えた。
少し考えれば分かる事なのに、ここまで嫌われているとは思っていなかったのだ。お気楽すぎる。
結人と会っているだけで私の親に連絡がいくレベルで嫌がられているのに、そこまで考えていなかった自分が恥ずかしい。最悪すぎて消えたい。
結人のご両親が、大事な息子に相応しい相手との結婚を望むのは当然だ。少なくとも、自分勝手な都合で婚約から逃げ出す女以外を選んで欲しいと思っているだろう。
考えれば考えるほど、私が結人と付き合うなんてしてはいけない事だと分かる。
とりあえず弟に詳細を聞こうと思っていたけれど、聞いたところで何かが変わるとも思えない。
会っているだけでも不安にさせるのに、一緒に住んでいるとか付き合っているなんて、そんなの言える訳がない。
そこまで分かっているのに、私は結人の腕の中から逃げることもせずに、今日をやり過ごそうとしているのだ。
逃げようとしても抜け出せないから仕方ない。この状況で付き合えないって言ったら、本当に何をされるか分からない。
そんな言い訳ばかりを並べて黙り込み、何も言わないでこの場を乗り切ろうとしている。
やってる事が全部不誠実で、どこまでも卑怯で最低だな、私は。
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