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いなくならないで
翌朝目を覚ますと、隣に結人の姿は無かった。
自分のものでないベッドに一人で残されている状況に、私の口からは「え……」と小さな声が漏れる。
上体を起こして部屋の中を見渡しても、ただ窓から光が差し込んでくるだけ。昨日の分かりやすい温もりが近くにないことを不安に思う自分に、起きて早々嫌気がさした。
私は一体、何を期待しているんだろう。
行為が終わってすぐ部屋に帰ろうとしたり、結人に抱き締められながら付き合えない言い訳ばっかり考えていたのに。
朝起きて一人残されているのが寂しいなんて思うの、あまりにも自分勝手すぎる。
付き合う気がないのに、恋人らしい扱いを求めているみたいだ。
「……頭冷やそ」
ベッドから足を下ろし、寝室のドアに手を掛ける。ドアを開けるとリビングの方から声がして、結人がまだ家の中にいることを感じて思わず足が止まった。
こういう時、どういう顔をして出ていけばいいのだろう。
どうしてベッドを出る時に声を掛けてくれなかったのかと、そういう話題は出さずに本題から入っていいのだろうか。
昨日色々と考えていたはずなのに、話を切り出すタイミングが分からない。
本当なら一緒に目覚めてベッドの中で挨拶した後、一晩使って試してもらってごめんねと切り出すつもりだったのだ。
その前提が崩れてしまった今、またシミュレーションし直さなければいけない。
セックスしたけど付き合う気はありませんと、顔を合わせていきなり話し出すのは少しハードルが高過ぎる。
どうしようかと寝室の扉を開けた状態でしばし固まっていると、リビングの扉越しに再び結人の声が響いた。
「……分かってる、一旦出るよ。その方が早いと思うし、担当の子にもそう伝えて」
独り言という感じはしないし、恐らく誰かと電話しているのだろう。
本当なら今日は結人もお休みのはずだ。それなのに電話をしているという事は余程急ぎなのだろうし、何かトラブルがあったのかもしれない。
「ああ……うん、分かった。納期が先の案件から動かせると思うから、こっちで調整出来ないか調べてまた連絡する。うん……ああ、成る程ね。そこは気にしなくていいから、客先への説明は任せていい? そう……あー……、うん。彼の方にはまた俺からフォロー入れる。早めに動いてくれて助かるってだけ伝えておいて」
私が固まっている間に、どうやら通話は終わったらしい。
話し声が途切れると同時にリビングのドアが開き、そこから出てきた結人とばっちりと目が合ってしまった。
まるで立ち聞きしていたみたいだ。
私がいるとは思っていなかったのか、結人のほうも一瞬驚いたように目を見開く。
「え……、ああ、おはよう。起こさないように出たつもりなんだけど、ごめん。うるさかった?」
「あ、違うの。顔洗いに行くつもりで部屋から出たら、なんか話し声がして。仕事の電話みたいだから、邪魔にならないように戻った方がいいかなとか考えてただけで……」
本当はもっと違う事を考えていたのだけど、流石にこのタイミングで話を切り出すのは違うと分かる。
誤魔化すつもりで「何かあったの?」と質問すると、困ったような笑みを浮かべながら「少しね」と結人が返した。
「そんなに大きなトラブルってわけでもないけど、急ぎでやる事があるから少しだけ顔出してくる。と言っても、俺が直接すること自体そんなに多くないし、午前中に帰れると思うから待っててくれる?」
「え……?」
「昨日は結局ちゃんと話せてないから、俺がいない間に部屋から出たりしないで待ってて」
一瞬、結人の声が僅かに硬くなったのが分かった。
私が言おうとしていた事が全て見透かされているようで、喉の奥にぐっと言葉が痞える。
「……あ、その」
「おいで」
最後まで言い切る前に手首を引かれ、寝室に戻されるとそのままベッドに腰掛ける形になった。それ以上何かをされるわけでもないのに、不思議とその状態から動けない。
私をベッドに座らせただけで結人は離れていき、呆然とする私を残して今度はクローゼットに近付く。
仕事に行くと言っていたし、着替える必要があるのだろう。その状況は分かるけれど、どうして一緒に寝室に連れ戻されたのかが全く分からない。
着替え始めた結人をただ黙って見ていることしか出来ず、そんな私の方に視線だけを向けた結人がゆっくりと口を開いた。
「……あのさ、昨日の本当に嫌じゃなかった?」
「え……」
「嬉しかったって言ってくれたけど、あれは嘘じゃない?」
シャツのボタンを留めながらそう問われ、少し困りながらも小さく頷く。
「……う、嘘ではない、けど……その」
「ああ、待って。今は時間ないから、俺が帰ってからちゃんと話してくれる? このタイミングで行かなきゃいけないの本当に嫌だけど、出来るだけすぐ帰るし、その時間で和音もゆっくり考えてよ」
「え? あ、でも……」
「色々と始める前に、本気なのかって俺はちゃんと聞いたよ。何か嫌な事しちゃったなら謝るし次からは直すから。そんな顔して、なんとなくで終わらせようとしないで」
「へ……」
着替えを終えた結人がクローゼットの扉を閉め、再び私の方へと近付く。
膝の上に置いていた手に結人の手が重ねられ、その指先が軽く絡んだ。
「せっかくここまで許してくれるようになったのに、やっぱり無かったことにしようって言われるの無理。和音が嫌だったならセックスはもうしなくていいから、極端なこと考えるのだけはやめて」
私が考えていたことなんて、ほとんど見透かされていたのだろう。
伝えようとしていた事を先に制されてしまい、何も言えずに固まっていると、そのまま結人の手が離れていった。
どうしよう。違うのに。
昨日した事が嫌だったわけじゃなくて、私が結人に釣り合わないから駄目なのだ。
嫌だったらしなくていいなんて結人に言ってもらう資格、私には最初からない。
「結人違うの。昨日した事が理由じゃなくて、ただ私が……」
「ごめん。今はそういうの聞く余裕ない。本当にすぐ帰るから、家の中でゆっくり休んでてよ」
本当に、今は私の話を聞いてくれる気はないらしい。
貼り付けたような困った笑顔で「後にして」と言われるばっかりで、最後まで言わせてもらえることは一度もなかった。
結人が私の「付き合えない」を、嫌だと思ってくれていることは分かってる。
だけどこれ以上迷惑を掛けたくないし、一度全てを投げ出した身で、やっぱり付き合うなんて都合の良い選択は出来ない。
結人の交際相手とか結婚相手は、もっとちゃんとした人がなるべきだ。
結人が何を言ってくれても変わらないくらいに、私の意思は固まっている。
だけど決して結人の事を嫌いになったわけではないし、昨日の行為が嫌だったわけでもない。そこは嫌な誤解をされないように、しっかりと話して謝りたい。
結人が悪いわけじゃないとか、ご両親が心配してるから相応しい人を選んで欲しいとか、伝えたいことが色々ある。
でもそれは、急ぎの仕事に向かう結人を引き留めてまでする話ではないとも思った。
「……忙しいのにごめん。また帰ってから聞いてくれる?」
「うん。絶対に聞くから、和音もちゃんと家で待ってて」
後から時間を取ると言ってくれているのだから、今は引くのが大人として正しい。
待ってての言葉に一度頷くと、少し不安そうな表情を滲ませながらも、結人は家を出る準備を再開した。
身支度を整えて持ち物を確認し、その数分後にいってきますと私の頭を撫でた結人を見送ってから、閉まった扉を見つめて大きく息を吐く。
勝手に出ていくなんて不義理な事をするつもりはないのに、「絶対にいなくならないで」と念を押すように結人は口にしていた。
学生時代に私が逃げ出した事を結人が引きずっているようで、その罪悪感からまた少しだけ胸が痛む。
「……あ、そうだ。結人がいないうちに詳細聞かなきゃ……」
昨夜返信できなかったメッセージの事を思い出し、隠すようにして置いていたスマートフォンに手を伸ばす。
メッセージアプリを立ち上げようとしたのと同じタイミングで、偶然にも端末が震え出し、電話の受信を知らせるマークが画面に表示された。
本当に、驚くほどタイミングがいい。
受信を知らせるアイコンの真横には、ちょうど連絡しようと思っていた弟の名前が表示されていた。
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