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大人だから大丈夫
四人掛けのソファ席で、机を挟んで翔と向かい合わせに座る。
モーニングと書かれたメニュー表に軽く目を通し、二人分のトーストのセットを注文した。
ドリンクバーから取ってきてもらった二人分のコーヒーが卓上に置かれ、食事が届いてもいないのに、早速翔から本題を切り出される。
「姉ちゃんは心配させたくなかったとか言うんだろうけど、火事とか引っ越しとかあったら普通その時点で連絡しねぇ? 元々頻繁に連絡し合ってたわけじゃないけどさ、そういう事は一番最初に話すべきだろ」
「……うん、本当にごめん。バタバタしてて話すタイミング逃したし、生活はなんとかなりそうだったから、報告するの後回しにしちゃってた」
半分嘘で、半分本当。
話せなかった理由の大半を占めているのは「心配させたくなかった」という理由になるのだろうけど、それは部屋が燃えたことに関しての心配ではない。
結人と一緒の部屋で暮らすことや、結人が同じマンションに住んでいて偶然再会したこと。
自分の気持ちもよく分からないままで、誰かに相談するにしても、何を相談していいのか分からなかった。
再会して最初の一ヶ月はただ食事をする仲になっただけで、何か困った事があったわけではない。
部屋が燃えても数ヶ月で元に戻れるという話だったから、報告するようなことではないと思っていた。居候期間が終われば元の状態に戻るのだから、中途半端な関係を話しづらかったというのもある。
結人の好意と親切心を利用していますと自己紹介するみたいで、なんだかすごく嫌だった。
こんな私と違って、結人はちゃんと自分の親に話したのだろうか。
「色々あって大変だったっぽいのは分かるけどさ、落ち着いてからでもいいから話してくれたら、俺だってなんか手伝えた事とかあったかもしれないのに」
「……うん、本当そうだね。ありがとう」
こうやって心配して会いにきてくれて、怒りもせずにちゃんと話を聞いてくれるのだ。我が弟ながら、本当に真っ直ぐで良い子だな。
自分の汚いところを全部隠そうとしていたことが、改めて恥ずかしくなる。
「今の状態とかちゃんと話すね。でも少し長い話になりそうだから、先に翔の話きいてもいい?」
「俺の話?」
「昨日のメッセージ、結人のお母さんから家に連絡あったっていうから、どんな話だったのかなって……」
「お待たせしましたー」
翔の返事を聞く前に、モーニングプレートを運んでくれた店員さんの声で会話が一旦止まってしまった。
プレートが卓上に置かれて店員さんが一礼した後、何事もなかったかのように翔が話を再開する。
「どんな話って訊かれても、電話してたのは父さんだし。昨日の夜に電話があって、和音ちゃんがウチの息子とまた会ってるかもしれないんだけど本人から連絡とかきてないのかって感じの……確認? 心配? なんかそんな感じで話されたらしいよ」
「確認……」
「父さんはそんな話は聞いてないって返したみたいだけど、お前は何か聞いてないかって俺にも聞いてきたから、一応姉ちゃん本人に確認しておこうと思って」
「あ、それで昨日の電話?」
「そう。なのに電話しても出ないし、メッセージ入れたのに既読になってからも返信とか折り返し全然ないからさぁ。向こうの親が心配して電話してくるなんてよっぽどだし、もしかしたらマジで結人くんと何かあったんかなって思って家まで来た」
例えば家に無理やり押しかけられてたりとか……と続けられ、それは即座に否定する。
私の部屋の現状を見たばかりの翔は「分かってるって」と笑って返してくれたけど、それとは真逆の状態になっているなんて考えてもいないだろう。
無理やりではないけれど、押しかけているのは私の方なのだ。
翔が心配するような事は何もないけれど、結人と何もなかったと言ってしまったら嘘になる。
一時的にとはいえ同居していて、何度もキスをして、昨日に限って言えば一緒のベッドで眠った。付き合わないと決意はしたが、ここまでしておいて「何もないです」なんて通るわけがない。
「……黙っててごめん。実は今、結人の家でお世話になってるの」
「は?」
分かりやすく固まった翔に、変な誤解をされないように急いで説明を続ける。
学生の頃を連想させて、無理に呼び出されているとか思われてしまったら最悪だ。
全部、私が決めて動いたことなのに。
「その、偶然同じマンションに住んでて、何回か食事に行ったりするような友人関係だったんだけど……あ、火事になった時にも心配してくれて、住むところ困ってるなら部屋使ってくれていいって言ってくれたから今は……」
「いや、ちょっと待って、は? 何? 一緒に住んでるって事? 同じ部屋で?」
「あ、同じ部屋って言っても、空いてる部屋貸してくれてるから寝るとことかは別だし」
「そういう事じゃなくて、だってさぁ……学生の時にあんな色々、毎日呼び出して泊まらせて、親の仕事のこと持ち出して脅したりとかして」
「そんなの私が勝手に責任感じてただけで、親の仕事のことで結人に直接なにか言われたりとか、そういうのはなかったよ」
「だけど婚約者って立場いいように使って、同意もないのに色々されたのは事実だろ。姉ちゃんが辞めたいって言い出すまで何も知らなかった俺が言うことじゃないかもしれないけど、あの時自分がやられたこと忘れたわけ?」
「……全部過去の事だし、今の結人は私が嫌がる事しないよ」
「だからってありえないだろ。仲良いからって普通はそこまでしない。……なに? 付き合ってんの?」
親戚でもない男女が一緒に住んでいるのだから、そういう考えになるのは当然だろう。
むしろ付き合っていると答えた方が、安心してもらえるのかもしれない。
過去にあんなことがあった相手と、恋人でもないのに同居している方が不自然だ。
──本当に、付き合ってるって、胸を張って言えたらよかったのに。
結人のご両親には嫌われているし、自分が結人に釣り合っているとも思えない。今だって、結人には与えてもらってばっかりで何も返せる気がしないし、むしろ迷惑ばかり掛けている気がする。
櫻川グループの後継者として、結人は結婚も考えなくてはいけない年齢だ。そんな大事な時期に私と付き合って欲しいなんて、とてもじゃないけど思えなかった。
「……ただの友達で、付き合ってるわけじゃないよ。結人は優しいから、修繕が終わるまで部屋貸してもらってるだけ」
「結人くんはなんて言ってんの? マジでただの親切だと思ってる?」
「本当にただの親切だし、結人は修繕終わるまで居ていいよって言ってくれてる。だけど、結人のご両親が良く思わない気持ちも分かるし、そんな連絡があったなら出ていかなくちゃなって昨日考えてた」
「俺的には結人くんの親が心配してるとかはどうでもいいんだけど、ただの親切なわけないんだし、もうちょっと疑えば?」
「疑うって何が?」
「偶然同じマンションとか、少し仲良くなってから火事とか……ちょっと調子良すぎっていうか、仕組まれてんじゃねぇの?」
「は……?」
翔が本気で何を言っているのか分からず、一瞬固まってしまった。
マンションで再会した時、閉まりかけたエレベーターに後から乗り込んだのは私だ。あの時は結人も私を見て驚いた顔をしていたし、私が帰るタイミングをコントロールするのは無理がある。
火事だって、結人とは何の関係もない真下の部屋の住人が起こしたものだ。出火の原因は電子レンジを繋いでいたコンセントだと聞いているし、仕組んでどうこうできるものではないだろう。
しかし翔がこんな風に思ってしまうのは、私が結人とのことを隠していたせいでもあるのだ。
私の言動が怪しいせいで、ここまで疑わせてしまっていることが悲しいし、結人にも翔にも申し訳ない。
「そ……そんなの絶対にないし、仕組むとか無理だから大丈夫だよ」
「なんでそんな風に言い切れるの? 現に今こうやって一緒に住んでるんだから、相手の計画が成功してるだけとか普通に疑うだろ」
「一緒に住むのだって私が決めたことで、別に無理強いされたわけじゃないよ。ホテルから通うとか別で部屋借りるとか、選択肢は他にも色々あった中で私が自分で選んだ」
「通勤はちょっと大変かもだけど、数ヶ月なら普通に実家戻ればよくない? あー……なんかもう無理。姉ちゃんってしっかりしてると思ってたけど、不用心すぎてさすがに心配になる」
心配されるような事なんて何もないのに、私の説明だけではうまく誤解が解けない。
翔が最後に見た結人は学生時代のことで、どうにか会わないようにと、婚約を破棄した私が必死に結人を避けていたイメージがついてしまっているのだろう。話をするために学校の近くで待ち伏せされていたことを翔も知っているし、その時の印象が強すぎるのかもしれない。
本当に今は、全然そんなことないのに。
「翔も、今の結人を見たら印象変わるんじゃないかな。大人になって色々変わったと思うし、雰囲気とか全然違って優しいよ。昔は確かに不機嫌そうな顔してる事も多かったし、少し圧があって怖い感じしたかもしれないけど、あの時は私も……」
「家で待っててって言ったと思うんだけど、こんな所で何してるの?」
急に横から声を掛けられ、温度の無い低い声に思わずひゅっと喉が鳴る。
正面に座る翔の方を見ながら話していたから、横から近付いてくる人がいたことに全く気付いていなかった。
「あ、ゆい……」
「……ああ、なんだ翔か。和音が知らない男といるのかと思って、ちょっと焦った」
今の結人を知ってもらえたらと、そんな話をしていた最中なのにどうなっているんだろうか。
翔を見下ろす表情も声も、昨日までの私に向けられていたものとは全く違う。
無表情で、淡々とした話し方からは圧を感じて空気がピリピリする。ふと、エレベーターで再会した日は、こんな雰囲気だったなと思い出してしまった。
一緒に食事に行くようになってからは始終優しくて、ずっと柔らかい雰囲気だったから忘れてしまっていた。
一緒にいるだけで緊張して、息が詰まる感じ。まるで、学生の時みたいだ。
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