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プロローグ
その日は朝から嫌なことが続く一日だった。
朝食を食べながら見ていたテレビに苦手な人が映り、慌てて消そうとリモコンに手を伸ばしてコーヒーを溢したところから最悪な一日がスタートしたように思う。
その後も鞄の持ち手が切れたり自動販売機で選んだ商品と違うものが出てきたりと、とにかく良くない事が連続で起こる一日で、そんな日に限って仕事もトラブルが続くのだから本当に嫌になる。
それでも悪いことが重なる日はあるものだと割り切って、これだけ運の悪い日はさっさと帰って寝てしまおうと、コンビニで軽く夕飯を買ってそのまま帰路を急いだ。
マンションに辿り着いたら、あとはエレベーターに乗って数歩歩けば部屋に帰れる。あと少しで憂鬱な一日を終わりにできると、そんな気持ちでエレベーターに乗り込んだーーそんな瞬間の出来事である。
「……和音?」
「え? あっ……」
エレベーターの中に先客がいる事には気付いていたけれど、顔を上げる気力もなくて、名前を呼ばれるまで相手の顔を認識しようともしていなかった。
相手の顔を見た瞬間に扉が閉まり、逃げ場のなくなった状態にサッと血の気が引いていく。
どうしてこんな場所にいるのだろうという疑問が頭の中をぐるぐる回り、そうしている内に再度名前を呼ばれて視線が絡む。
朝のテレビで見たのと同じ、即座に記憶から消そうとした人と同じ顔がそこにあった。
「ゆ、いと……?」
「うん。三年振りだっけ? 元気だった?」
「……げ、元気だった。あの、結人は……?」
「別に、大きな病気はしてないよ。色々あって疲れてはいるけど」
その色々には私のことも含まれているのだろうかと、そんな事を考えてまた空気が重たく感じる。
扉が閉まったばかりのエレベーターはついには上昇を始め、完全に逃げ場のない状態になって今更自分の行動を悔いた。
先客がいるのが分かった時点で、次にエレベーターが下りてくるまで待てば良かったのだ。疲れているからまあいいやと乗り込んだりしなければ、こんな事にはなっていない。
知らない人とエレベーターで乗り合わせるくらいなら何も問題はなかったのに、一日の締め括りにこんな展開を持ってくるなんて、今日が不運が重なる日だったとしても流石にやりすぎだと思う。
三年振りに再会したからといって、久しぶりだねと話が弾むような関係ではないのだ。
何も言及してこないから結人がどう思っているのかは分からないけれど、私が気まずいと思ってしまうくらいに酷い逃げ方をした自覚がある。こんなに普通に会話を続けられても、どうしていいのか分からない。
「もしかして和音もここに住んでる?」
「そ、そうだけど……えっと、結人までどうしてこんな場所……」
「結構長期で担当する案件があって、ここが一番アクセスいいから最近引っ越した。押すよ、部屋何階?」
「え、あの……」
身体が強張って背中が冷たい。
いつもなら何も考えずに四階のボタンを押すけれど、結人に私が住んでいる所を知られるのが嫌でそれすら出来なかった。同じマンションだと知られた時点で、そんなの手遅れかもしれないけど。
「同じ階、なわけないよね。俺に部屋知られるの嫌?」
「だ、だって……」
「別に和音の部屋に押し入るつもりはないけど。このまま上まで来るなら俺の部屋連れてくよ?」
そんな事を言われても、四階なんてすでに通り過ぎた後だ。このマンションの最上階である十五階のボタンだけが明るく光っていて、私が答えないせいでエレベーターはどんどん上へと上がっていく。
「……そんなに警戒しなくても、本当に偶然なんだけど。待ち伏せしてたとか、嘘ついてるわけじゃないよ」
「あの、朝のニュースで近くの複合施設の改修するって見たし、その担当者として結人が映ってるのも見たから……。別にそんなの疑ってるわけじゃないよ」
「ああ、そう。あれ見たんだ」
正しくは結人の顔を見て即座にテレビを消したわけだが、そんな失礼な行動は伏せたまま一度頷く。
「それで? このままだと本当に上まで行くけど、自分の部屋帰らなくていいの?」
「えっと、もう通り過ぎちゃったから。下に戻る時に降りるから別に……」
「そうじゃなくてさ。こんな機会もうないかもしれないし、ちゃんと話したいんだけど。今から時間もらえる?」
急に固くなった声で訊ねられ、ひやりと心臓の辺りが冷たくなった。
先程までの軽い調子とは全然違う雰囲気で、狭いエレベーターの中が一気に緊迫したように感じてしまう。
「……あ、あの、私から話すことは別に、」
「あるよね? あんな終わり方されて納得できると思う?」
「う……」
ちゃんと説得して互いに納得できる話ができるなら、私だって最初からそうしていたと思う。
しかし私が何を訴えても結人には一切響かないし、私が言うことよりも結人の意思が優先されることなんて目に見えていた。
話しても意味がないと、そう思ったから黙って行方をくらませるという手段を取ったのだ。
あんな逃げ方をしたせいで多方面に迷惑をかけたことは分かっているし、確かに私が最悪な終わり方をしたことに変わりはないけれど、その原因が結人にあることは本人も自覚しているだろう。
それなのに、今更何を話せと言うんだろうか。
「ねえ、俺は和音の何?」
当時の私が何度もされた質問を、目の前の男が同じように口にする。
その度に彼氏だとか恋人だとか、結人が納得する答えを返すしかなかった。
彼――櫻川結人は、父が勤めていた会社である櫻川グループ当主の次期後継者で、私の元婚約者である。
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