旗本の姫様

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 やがて、真っ青だった濡れ鼠の顔に赤みが戻ってきた。慌ててやって来た町医者も、暖かくしてこのまま安静にしていれば大丈夫だと太鼓判を押してくれた。呼吸も安定し始め、濡れ鼠はスヤスヤと穏やかな寝息を立てている。そんな様子に千代はホッと息を吐いた。  志乃もその様子を見て、少し緊張を解いたのか小さく笑みを浮かべる。しかし、すぐにその表情は曇った。視線は衣桁に掛けられた濡れたままの着物に向けられる。  女子(おなご)が男の格好をしていたというだけでも訳ありであろうに、さらに、ずぶ濡れになるほどに雨に打たれていたのだ。この娘に何かのっぴきならない事情があるのは明らかで、自分たちは知らぬうちに厄介ごとに巻き込まれてしまったのではないかと、志乃は不安な表情を浮かべていた。  やがて風呂で身体を温めた太郎が、千代たちのもとへ戻ってきた。髪はしっとりと濡れたままだったが、湯で温まった身体からはホカホカと湯気が上がり、さっぱりとした様子で顔色も良い。 「奥方様、風呂を頂いてしまい申し訳ありませんでした。おかげですっかり温まりました」  太郎の言葉に志乃は安堵した様子で笑みを返す。 「良いのですよ。お前まで倒れてしまう方が大変ですから」 「はい。ご心配ありがとうございます」  太郎は志乃に向かって頭を下げる。それから床に寝かされた濡れ鼠の方を見た。その視線に気づいた千代が安心させるようにニコリと微笑む。 「心配ないわ。今は落ち着いて眠っていらっしゃるだけだから」 「そうですか。……しかし、まさか女子だったとは。この方は結局、どなたなのですか?」  太郎の問いかけに千代と志乃は視線を交わし、二人して深い溜め息を吐く。 「それが分からないのです」  太郎は驚きの表情を見せ、それは直ぐに困惑の表情に変わった。 「申し訳ありませぬ。誰とも知れぬ輩を連れてきてしまったようで」  太郎の言葉に志乃は首を横に振る。 「良いのです。お前は悪くありません」  確かにこの娘は謎だらけだが、しかし病人だ。今はとにかく看病をするべきだと志乃は思った。千代も母と同じ気持ちのようで、その目は真っ直ぐ濡れ鼠を見ていた。 「このお方が目を覚まされたら、色々と事情をお伺いしましょう。今はとにかくゆっくりと身体を休めて頂かなくては。その後のことは、またその時に考えれば良いでしょう。とりあえず今は落ち着いているようですし、わたくしは夕餉の支度に行きます。二人はこの方に付いていてあげなさい」
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